独り言


1月11日

最近どんどんR@M集めも極ってきてもちろん以前のように熱心にやらなくなくなってきた。 UOも止めたし。最近通ってるサイトも無いし。インターネットもマンネリだし。普通の人間が目標や今熱中してるものだとかいった日常生活からのごまかしが無い。小説も漫画もTVも映画ももう追いつかない。困った。もうこの世界はだめだ。世界というのは言いかえれば環境かな。といっても日常からは逃れられない。違う世界に行きたい、そして生きたい。なぜ自分が本を読むのか、なぜ自分が映画を見るのか。
そんなことさえ考えずにいたやつらにはわからんとおもう。しかしすべての物事は一過性ではないのだ。オレが良いわけでもないし何も知らん馬鹿がだめというわけでも無い。しかし俺は馬鹿をうらやましいとは思うが尊敬なんて出来ないね、絶対。もう口をすっぱくしていっているが何もかも平等だ。それははっきりしてる。びょうどうでないじゃないか!という奴はただ自分の目で見てるからだ。周りから見なければだめだ。球の中心に向かって満遍なく線をひくように。ネスカフェの宣伝(笑や映画のさりげない日常を映し出すシーン。ものすごくひかれるときがある。
そこで生きたいと思う。漫画やファンタジーの世界にあこがれる。そこで生きたいと思う。生き物の欲求の根本に5こだかなんこだかあるね、食欲、睡眠欲・・・etc。上で書いたような欲求はどれに属するのか。どれにも属さない、まさに人間ならではだ。まぁ学者じゃないんで説明したいわけじゃない。
し化しオレにはその欲求こそあすべての根本にある欲だと思う。人間は違う世界に生きたいと絶えず願ってる。うまいものを食ったあとの至福の感覚、そこに新しい世界を見出してるからこそ、うまいものが食いたいんだ!
生物の欲求じゃなくて人間の欲求、みんな違う世界に行きたがってる。よくいわれることだね、違う世界にいきたがってるって。しかし言葉だけで意味もわからず使うんじゃないよ。
まぁここで書いたってどうって事も無いことだけど。まぁむずかしい事だってのは確かだね。簡単に解決するようなことなら深く考えたりしない。したがってこんなとこにも書かない。猿岩石の変わりに行ってみたかった。ロビンソンクルーそーみたいに無人島に行きたい、フィクションだけど。
それと余談だけどオレは批評家が大っ嫌いだ。まぁ良い人もいる。事実だけ伝えればいいんだ。砂粒ほども自分の考えは入れるなといいたい。まぁ人の考えを受け入れたくないとでも言えばわかりやすいでしょうな。というかその考え見てみないと機雷かどうかわからんのが本音だけど。とても区別の仕方がむずかしい、言葉では。
とくに嫌いなのはその映画を詳しく知ってて説明するだけで、または見所をいかに丁寧に伝えれるかだけで自分が誰よりも楽しんでると勘違いしてるやつ。カレーが好きなばあいカレーをいかに詳しく説明できる奴が本当にカレーを好きな奴じゃない。本当にカレーが好きなら一言も漏らさずに食いつづけるさ。
まぁこのような温かみも何もない事実を述べてるという時点でオレは人生を楽しめてないってこと。知った顔で説教する奴よりいい点は俺がその事実に気づいてるって事だね。END



1月11日
トルストイの人生論だかってのを見たけどありゃ読めたもんじゃない。回りくどい言葉でねちねち反対派の奴の悪いところをいいまくる、そして回りくどく言ってるからよくわからんし。
全てを説明すればおのずとわかることなのに。口論することってよくある人もいるかもしれない。その場合早く終わらせるためには。というかその場合自分が客観的な目でもう結論をつかんでなきゃだめなんだけど。まず相手の言いたいことをすべて言わせる。
そしてそれを自分で口に出して了解を得る。そして反論だ。もちろん相手にわかりやすいように。口論ってのは投げかけるだけでうやむやになることが9割以上。自分にも相手にも全貌を見せる。これでことはすむ。真実はひとつしかないわけだからそれを見せてあげればおわる、だからこそ自分が真実をつかんでなければ意味がない。感情をコントロールできるようにすること。
切れてる自分を自分の隣に感じることさえ出来ればそれでいい。尾さえなければ行けないんなら押さえればいい、出してしまえばいいなら出せばいい。すべてを自分から切り離せばとてもスマートにコントロールできる。痛み、悲しみ。すべてできる。一回傍観者として痛みという感覚を見てみるといいかもしれない。しかし感情をコントロールできない馬鹿も大勢いる。その時は押さえる必要なんてない。
しかしその為には暴力も持っておかねば行けない。力だけでは世の中はわたって行けない。もちろんようととその力の性質によって名前が変わるだけだが。無理やりでもいいなら暴力だけですべてかいけつする。もしも俺の体が地球よりでかかったら?何もかも壊せる。しかし解決は出来ない。やはり二つの力を持つべきだ。できるならね。



1月12日
人はよく感動して涙を流す。僕もちょっと前から声を上げて泣くことさえ多い。多分知り合いは意外と思うだろうがお化け屋敷すら目を開けて入ったのは1,2回しかない。まぁそれは関係ないが。ともかく人は色々なものに感動する。マンが、小説、TVゲーム、映画などすばらしいものがたりに。しかしもしかしたら感動のあとに激しい嫌悪感にさいなまれる人もいるはずだ。それも感動が大きければ大きいほど。まぁ僕がそうだからなのだが。いつも言っている客観、で人間である部分の僕を見てみる、ととてもドラマチストなのだ。
ロマンチストではない、というかドラマチストって言葉があるのかすら知らないが。自分に対してはいくらか非難というか悪い意味で言っている。だからこそ嫌悪感が起こる。現実との矛盾って奴だ、一般ピープルみたいにそこで途切れない、自分と重ねる。
そこで気づくのだ。限られた人物による限られた夢物語であると。よくある話しだ。自分の境遇をのろう、そして嫉妬してすべてのものを恨む。とくに昔色々あったのでスポーツ物はてきめんにくる。まったく持って当たり前の話だがまったくもってどうにもならん。なぜ日は希望を描き現実を美化するのか。そのせいで本来の目的を反してまったく勘違いだけしているというやからがあまりにも多すぎる。
何処をどう見ても今の日本に希望というものがあるとはおもえなのだが。別の見方も出来る。人間というものは肉体が出来、そして知性が出来た。もう肉体は完成されどくじに進化している。知性はもしかしたあ人間の成長期でいう思春期のようなものかもしれない。悩み多かりし時って奴だ。
最初もう人間は終わりだと思ってた。老年だなぁと。人間にたとえてみたその時に老年ではなくまだ若いのかもしれないと思った。まぁこれは自分にしては珍しくただの推論であり希望だ。しかしこれだけは言える。突き詰めれば絶望しか残らない。
それは物語にハッピーエンドが多いというのが証拠だ。またハッピーエンドが好まれるということも。夢?希望?もし現実がそれであふれていればそんなもの改めて見させる必要もない。精神が成長すれば成長するほど破滅に向かうと思うのだがどうだろう。ここでそんなこといったって楽しくも無いし意味もないという人もいるかもしれない。しかしこれは希望を見ようとするからこその俺という馬鹿の悪あがきなのである。火を消したければ火を知れ。消防の論理と決定的に違うところは無理に近いということだ。
言いかえれば破滅論者のほうが希望を持っているということでもある。自分がここでいっていることは自分と同じレベルならば当たり前のことである。しかし圧倒的にすべての事象において勘違いしてるやからのほうが多い。だからこそ いう。



1月12日
自分にもまだわからない事がたくさんある。まぁ少ないが、ひとつは嫉妬である。それを語るには愛を語らなければならない。またこのあいというものがくせものだ。人がそれの片鱗にすら出会うことさえ人生には少ない。したがって視野が狭くなる。まぁこれについてはそこまで考えろとあえて言うべきでもないことだ。大きな物の形を知りたければちかずいていくのではない、はなれてみることだ。さて、人間は女性に何を求めるか愛と性だ。人間だから愛を求めるのだ。
動物的な本能と人間的な本能。そしてそこにも矛盾が生じる。ぶすでやさしい人と美人でうんぬんという奴だ。もしかしたらこれは宇宙の始まりを知るよりも不可解極まりないものかもしれない。なに画家というとその愛という奴を中心にしてすべてがだ。なにが愛か。そこが言葉で説明できそうもない。言葉で説明しようとすると愛情と友情のちがいさえも定かでは無くなってくる。
もちろん突き詰めて話をしていったあとの話しだが。性を求めなければ男でもいいではないかという話になってしまう。また人生の伴侶といい憂い未では動物でもいいではないかということにもなり兼ねない。そして困ったことに動物に対しても友達に対してもそのすべての感情が愛情とよばれる。うえている人間に食事を差し出すのも愛だ。そしてここでひとつ。愛というものもすべては人間のエゴであるということを忘れてはならない。もしかわいい子供と食事中うえている人がやってきたとする。
どちらかにしか食事は提供できない。いいか、まったく美化せずに考えればどちらを選んだにしても、美化しなければ自分の意思であり自分のよくに隣接していることだと言う事だ。
ここははっきりしてもらいたい。このようにとても不可解極まりないものだが嫉妬とはさらにその上に絶妙なバランスをとって乗っかっている。個人個人で考えればいいではないかというのは違う話だ。
個人個人が現実に接していてそれがすべてと勘違いしているのと同じように視野が狭くなっている。ただ自分のように遠方から見ているからこのように言えるだけであって当事者には夢中になれるものこそ愛だ・それは紛れもなく、そして否定も出来ない。
これもどっちもが正しいという困ったことになる原因だ。しかし事実をそのまま伝えるということがこの場合真実でもある。見分けるのはむずかしいが。嫉妬とはなんであるの蚊、いつも書きながら結論付けていくのだがこれは今決めてしまうには惜しいような気がする。とても複雑だ。
もちろん傍観するには一回密接に愛というものを体験しなければだめだ。それも生半可ではいけない。命と一回でも結び付けられるような思いをしたこがない人は彼氏彼女ごっこを楽しんでいるしかないのだ。



2月1日
あしたのジョーを読んだ。毎回毎回心ってものを動かされてる俺だがこう色々なものがあふれてるよの中だと感動,感動。足首を持たれて振りまわされてるような気分だ。人間はこれにたえられるのかね。犬だって同じえさをやりつづければ飽きてしまうものだ。
人間って奴はどうにもこうにも破滅って奴に向かって歩いていかなければいけないらしい。進歩,是は破滅へむかうこと。現世ってのは神様の罰だってのもあながち嘘じゃない。それよりもいろんなものの中でなにが一番心を動かす要素が多いか。それは時間だね。
こんな定義さえもあやふやなものが重要だといってしまうけどまさにそのとおりだと思う。そして漫画が一番だと信じてる。漫画がつまらんって奴は漫画が合わないだけで数値化すればこっちのほうが相当多いさ。ちゃんとしたストーリーじゃないとだめだけど。もちろん感動という事に限ってだけど。その中での時間とか色々あるけど、やっぱり自分が感じてる時間てのが一番大きいと思うんだよね。
映画は,2時間ほど。小説だってある程度さ。しかし漫画30冊ともなると。さらにいっぺんに作られない物だということがプラスなこうかを与えてる。実を言うと人生ってのが一番感動を与えてくれる代物だ。うまい具合に重なるんだよね人生と,一度に書かれないから。さらに長いし。
もし一気に全部買って読んだとしてもな〜んかちがうんだよ。もちろん特徴ってのもあるけどね,そのものによって。総合的に見るとさ。スポーツとかで一瞬のプレイが感動を与えてくれるじゃないか!というかもしれないけど、当の本人たちはさ,いやみてる人だって、どれだけ自分がそれにかかわってきたかによって増大するものだ。
そうやって言うやつは視野が狭いね。もちろんすべてを感じ取れない奴は論外だ。俺はうまれてこの方感動なんてしたこと無いって奴はね。ただ最近は感受性のある人間のほうが増えてきたようだし。だからこそ心配だね、感動に足くびもたれてぶんぶん振り回される奴が多くなる。
現実とのギャップに嘆くか,現実と混同するか。もしも現実が物語のように変わったとしてさえ、なれて,感動が無くなるだけ。もう良いだろう。戦争でもおっぱじめよう。なぜ必要か,出来あがったものを壊すためさ。戦争がいい物って言うやつはただのあほだけど、壊さなきゃいけない。
永遠に続くの,これが。おわりを見とめるってことははじまりをみとめること。だから言おうはじまりなんて物は無かったと。まったくむしょうにさびしくなるね。知性ってのは終身刑と同じさ。ごたいそうに人間は忘れることが出きる。ますます思うよ,地獄だって。



2月1日
なんかさ〜、9月ころといってることまったく違うなァ、雰囲気というか別もんだね☆もうすこしぶっちゃけたほうが面白い。はっきりいってコギャルは嫌いだ!しかしコギャルはギャグのセンスは良いし,以外とやさしい,しっかりしてる=苦悩する俺っていう公式まででてしまう!
やっぱ一目ぼれはないよね。今の若いもんてさ、まぁ俺もこう1だけど・・・SEXがあわないとうまくいかないとか、かおONLY。欲望に忠実だね。つまり馬鹿。最高の妻ってさ最高の友達だと思うんだよね。楽しく暮らせれば良いじゃん。その人を守ってあげたいと思って自然にそばにいれば良いよね。まぁ自分はもう少し愛想が良ければすこしはもてると女から言われました(^^;女は苦手だ・・・おとこは苦手じゃないんだけどね。顔みてなんて絶対話せないタイプだよん。
まぁそれそれとICQはおもろいよ!ぜひいれよう!ネットで仲良い人に出会えるなんて最高の喜びですよ!まじで。クィルさんは良い人です、うん,ずっと話してますし。というか本当女っけがほしいですね、という訳で女性&ネカマ(最後までばらさない自信のある方)もとむ(笑
それにしてもネカマ裁判とか見てるとまじで誰も信用できない〜、ネットでは信頼感なんて物はないんですね・・・。とくにエミュは女っけが少ないからさびしい!今までICCQには5人入ってくれましたけどね、それだけでも幸せかもね



2月1日
ふぅ、最近はもうほんとにネットがマンネリというか。僕もHP作ってなかったらねっとやめてます。というかUGが無かったらネット自体やってなかったかもしれないし。
ほんとにこの少ない技術で作ったこのHPには感謝してます、ネットで友人関係なんて子のHP造る前は全然でしたから。もうほんとにこのHP作る前はリアルでネットやってル人としか交流がなかったし。だがもうそろそろ限界かもしれません・・・・、またUOでもはじめようかな・・・・、しかしはやく一ヶ月定額で高速なインターネットが楽しみたいですね。そうすればネットのあり方ももっと変わってくるかもしれない。UOとかまえやったときラグで・・・。最近はやけにコンプリートの囲いが低くなってまぁ・・・あっという間に集りますからね。
ほんの3ヶ月前くらいまではコンプリートしてる人なんて見たこと無かったのに,全然。それに海外はスケールが違い過ぎるし。中国なんかすごいらしいです、SNESだって1600とかあってほとんどリンクが生きてるとかって!まぁ海外は全然行かないので・・・、もうこうなってくるとぱちもんのほうが価値がありますね。もう通常物に価値なんてないっす、もうどうにでもしてくれってなかんじ。まぁ今僕がこうしてHP続けてるってのも70%くらいクィルさんのお陰なんでcrystalに行ったらカキコでもしてあげてください。



2月23日(水曜日)
人間ってものは常識があるからめんどくさいことっがいっぱいある。もちろんメリットを否定するつもりは無いが今の時代多様な個性的なといえばカッコはいいが変な人間が多すぎる。自分も含めて。常識や普通という言葉を当たり前のように使うのはなにも世の中を見てない証拠か、意味も考えず使っていることが多い。
そういまや常識という言葉は使いがってが悪くなってしまった。これは道徳的な問題を話す上で大きな妨げとなる。ここがへんだよ日本人で低レベルな問題提起ばかりだったのでかういてみたが。あの番組は大好きだ!最高!!喧嘩は健康に良いぞ!
ということはいちいちルールを使わずに理想的な状態での議論は最高〜。つまりああいうバラエティーでの議論はかなり面白い。ぜひ見ることをオススメする。彼らはたいてい仲がいい。意見を言い合うことになれているのか、はっきりいってピーコなどが出ているワイドショーの険悪なムードのどろどろとした低レベルな議論とは大違いだ。自分はかなりに外国人的な考え方をすると思うが、まぁ自分としてはそれはどちらかというといいと思う。



2月23日(水曜日)
友情や愛。こういうものがなぜ存在するかわかるだろうか?幸せだからとか面白いから,全然違う。人間は弱いからだ。ましてや美化するだなんてとんでもないはなしでただ相手が必要としていて自分も必要としている、つまりお互いの欲望が満たされているだけだ。
しかし別にだからといって悪くは無いわけでかなりいい感じのものだ。ともかく人間は弱いから人間を必要とする。孤独を味わってみればわかることだ。とりあえず1人でいるときでもないのに一人でいてみよう。グループを組みなさいといわれ1人で立ってる奴。
これが本当の孤独だ。そして悪循環に陥る。いったん孤独に陥るとしよう。人間というものは痛めつけられると強くなる。心が。もしも孤独に耐えられるようになったとしたら、孤独でいるときに周りを冷静に見ることが出来れば友達なんか要らない。絶えて強くなり必要性も失う。そしてそもそも友情関係というものはよくの取引であるのだからなおさらだ。そいつは1人で立つことが出来る。
1人で立つことが出来るのだから他の人間は要らない。そいつはそこにいる人間たちにはなにも期待しなくなる。そいつは強い。だが自分を支えてくれるという過程で培う楽しさというものをそいつは知らない。なぜか最近の人間というものは孤独を寄せ付けない傾向にある。なにもつらいことがおきないようにするのがうまい。したがって何も考えずに幸せでいる。不幸な奴はなぜ自分が不幸か考える。
ギャップはさらに激しくなる。これで二つの種族に分かれてしまったな。ここで普通なら終わりだろう。しかし現代はバーチャルな世界が介入してくる。1人でいた男は1人で楽しむすべを覚える。作られた物語に浸る。浸っていくうちにそいつは弱さを取り戻す。そいつはクズだな・・・。俺はそういう奴を憎みはしないがあまり歓迎はしたくない。間違った方向に何もかも進んでいる。
しかし一方では未来に夢を託し今をいきるやつもいるはずだ。強い弱いとは言うつもりは無いがもしかしたら外国にはいろんな意味であう人間がいるかもしれない、もしかしたら大学で専門の分野を進むうちにあう人間が出てくるかもしれない。もしかしたら他の世界で嫌悪せずにすむいい環境があるかもしれない。 そういうちょっぴりの希望が人間をあしたへとなんとかかりたててくれる。しかし今の時代確実に均衡は崩れている。



2月23日(水曜日)
こういう適当なところは考えると逆にかけない。やはり適当に言葉を連ねたほうがいい。完璧な文章ほどつまらないものはない。庚きな文章は存在しないわけじゃない。ある雑誌の記者の作家へのインタビュー。「あなたの小説の主人公は火星で2度死に木星で1度死んだ。こりゃむじゅんじゃないですか?」「君は宇宙空間で時がどんな風に流れるのか知っているのかい?」「いや、でもそんなことだれにもわかりゃしませんよ」「だれもが知っていることを書いて、いったいなんの意味がある?」いや、ただかいてみたかっただけ。格言地味たことは感覚でつかめるから、知性と感覚の融合だ。しかし格言好きな奴ははっきりいってなんにも考えてないね。
正直言うと今まで書いたことの片鱗すらも覚えてない、読み返すとむかむかくるので読み返さない。まさにUPロードだ。昨日の晩飯になに食べたか忘れるような感じだ。そしてそれとともにネット上で得た意見はすべて天から降ってくるように思える。したがってあまり人とネットで話し合うのは得意じゃない、不毛なことを不毛な場でやってるといったかんじがする。
今日はドラえもんの魔法出てくる映画を見た。名前は忘れたけどまかいにいくやつ。今の腐ったアニメとはまた一味違う。今の漫画やアニメは全然だめだ、見る側の欲望まるだし。書くほうや造るほうにプライドや魂はないのか。ドラえもんやちび丸子ちゃんはいいよ。でも最近日曜日の奴って絵が変わってる・・・・、あられちゃんのときもショックだったしドラゴンボールGTもショックだった。今の子供がああなのもうなずける。人間って者は7割以上環境でつくられると思ってる。完璧なものはつまらないさ。WOWOWで三つ目がとおるをやってる。おもしろい。やはり人間と知性は合わない。だから滅びる。生き延びようとしてるようなきがする。完璧なものはつまらない。永遠に続くようなものはつまらない。人間はつまらなくなっていき、現につまらない。そろそろ限界が来てる。さぁはやくしよう。俺はじっと待つ。



3月26日
人間1秒後にはまったく違っていることさえある。毎日何か記録していくとそれがよくわかる。毎日作り上げられる膨大な思考を片っ端から捨てていきまるで脱皮するように大きくなるのだ。例えば今ここでの俺の考えヲ後になって一口で否定できる人間はまず自分と言う事だ。
自分の場合1時間後にこうかいていることはとっくに忘れてるだろうな。そして昔の考えを見てみようとはまだ思わない。とくに理由はないけど。理由をとってつけることなんて簡単なことだ。なにに対しても。人間というものは思ったことを口で喋るからね。その瞬間の自分がこれだと思ったことを主張する。なんて膨大な分岐点だ。
そう、自分が今思うこと,考えることなんてものは取るに足らんって事。意思的に操作する事だって出来る。信念なんて妄想だ。意見というプログラムを壊すウイルス。ちょっと駆除すれば人はひらりと意見を変えてしまう。つまり信念と呼ばれるほどのものもいじめ問題についてどう思うかなんてのも今日の夜はなにを食おうかなんてのも ちょっとしたきっかけでかわる。かえれる。自分を自分でだましてみよう。そうすれば衝突なんて起こらない。
人と人とのいがみあいはいやなものだ。とくにネット上でのトラブルなんてものは。遭遇してみればわかる。不毛だ。もうたの人間とめぐり合うことは心の衝突事故のパーセンテージをあげるだけではない?とさえおもえる。でもそんなものは、自分が一方的に引けば起こりえないし、しぼんでしまう。出ないくいは打たれない。それが解ればなにも起こらないのに。ばかげてるけど最善の策だ。世の中にはくいを打ちたがるやつらばかりだ。
くだらん。相手のことを侵食せず意見を打ちたてることが出来ないやつらばかり。感情なんて物のせいで。興味はなくなるばかりだ。



3月 同日
最近忙しい。部活のせいだ。どうも部活とはやることらしい。やることがある,やることがない。自分は他にもやることがあるという恵まれた環境なのでつらい。チームメイトは部活がない日はやることがなくてひまらしい。哲学なんて関係なしになにかを得ようとするのはつらいことらしい。
だから更新する暇がない・・・・・、それにもう得たいものはすべて得てしまったような気がする。もう面倒はごめんだなぁ



3月 31日
むしょうに,本とかが読みたい。何かに触れたい。これはどういうことをあらわしているのかなあ。自分がなにか,すべてに対するとということの根本的な概念はもう確立したはずなのに。うまく言えないが。例えば自分に友達がいたり、今までの友達から離れていったり、何かを失ったり、何かに嫉妬したり、なにかを呼んだり、何かを見放したり、なにかを収集したり、それは自分にとってはどういうことなのか、その他人にとってはどういうことなのか。考えるだけ,問題提起で終わるなんて。俗事はどうでもいい。

だれが幸せじゃない,だれが正しい、だれが幸せ、だなんて。もしかしたら狂ってしまうのが本当なのかもしれない。何度も言うように感情と知性の両立は無理なのだ。切り離した腕を,いとでつなごうとするようにだ。誰もの腕も腐りかける。感情,というものは人間だけにしかない,それはまったく確かなことで、動物と人間のちがい。それは感情があるか,ないかだけだ。まったくそれだけだ。死ぬのを怖がること自体、それは矛盾した考え。怖がるのは人間だけだ。例えばスポーツをすること、スポーツをしようと考えること,またしているのを想像すること。それがちがいだ。価値観がどうとか、私は人間でかまわないがどうとか、それは巨大な間違いの発する心音。思想を語ること自体が弁明だ,がどうとか、俺がここでこう語っていること自体がもうすでに間違いだ。

もっと巨大な目を持つべきだ。こんな文字の羅列なんてボケっとしているときの走り書きよりもくだらないものかも。まさに走り書き。しかし,自分の中のなにかが必死に、この自分という人間とせめぎ合ってこういう結論を出している。感動とか、残酷とか、すべてが生ぬるい。痛みとか幸福とか、この言葉自体生ぬるい、俺はいきることを放棄してもかまわないが。いたいのは怖いし,恐怖を感じるのを嫌悪する。だから人間だ。動物の生存本能と言う,一種のプログラムのようなものではなく。感情。が働いている。ここを理解すること。

何をさけぼうが、だれもが間違いの上で生きている。まさに地球の上で生きている。正しさを追求するならまずは死ぬことだ。
挑発,ひにくの類は大嫌いだ、真っ向から当たるか,当たらないかハッキリしろ。
まだ死ぬわけには行かない。ただ1つ,やりのこしていることがある。もしも,間違いを俺に気づかせず,ゆったりと生きてけるところがあったらいいな。
なんと言うかつまりはもっと激しく生きろ、揺さぶれば起き出してくるさ、きっと。 だれの心からも。人間は今だ進化をつづけている。




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