独 り 言


1月3日
■村上春樹は、愛と恋の区別を、少なくとも矛盾のない物語として表現できる程度には理解している。
おなじように、理性と感情の区別を理解している。それも登場人物によって大胆に比喩している。
俺が彼によって心ときめいたのは、俺を感じたからだ。
内包などとは、まぁ大げさすぎるだろう。
ただ、彼は俺の一部を持っていたし、俺は彼の一部を持っている。

理解は完了した。
核を掴むというか、こつを掴むというか、そこまで行けば後は大丈夫というか、そういう状態だ。
後は時間が手に入ればいい。




1月18日
■子供は悲しいとき、本当に悲しそうな顔で泣く。
本当に悲しいから、本当に悲しそうに泣く。
当たり前の事のようで、なかなか出来ない。子供だから出来る事だ。
大人は子供の悲しみを理解するのは難しい、しかしその悲しみは本物だ。

本当に悲しそうに泣く人を見ると、人は自分も悲しくなる。
悲しみが通じる。
相手の悲しみを感じる事が出来る。
言葉で伝えるよりも、本物が単純につたわる。
人の前で泣きたくない人は、悲しみを伝えたくないから泣きたくないのかもしれない。
人が泣く理由は様々だけど。

泣いたときは鏡を見るといい。
自分の悲しみが通じる。


■曖昧なままで居る事は、辛い事だ。
何故なら基本的に人は、あるものが大事であれば大事であるほど、曖昧であることを嫌うからだ。
そしてもう一つ、一生懸命やればやるほど、ハッキリとした答が欲しいものだからだ。
曖昧であることは、時に痛烈な答よりも本人にとって辛い。

通らなければいけない地雷原で、地雷の位置が記されている地図が曖昧だった。
自分が全力で作った作品に対する評価が曖昧で、苦労も曖昧で、得たものも曖昧だった。
ある人の事を本気で愛したのに、何かその気持ちは曖昧で、表現しても曖昧になってしまう。
etc

ドウデモイイ事ほど曖昧で済ます事が出来る。
しかし、まぁ一概にそうだともいえない。
様々な理由が、人に曖昧さ、つまり中途半端さを選択させてしまう。
曖昧においておくと、どうでも良くない事でもどうでも良くなっていく。
何が悲しいかや、何が辛いのかを麻痺させる。同時に何が素晴らしいかも。


■憎しみがなぜ存在するのか。
愛と切り離せない理由。それが判った気がする。
ずっと憎しみを毛嫌いしてはいたけど"正しい感情だ"と
そう心の隅で思っていたことは正しかったようだ。

憎しみの役割は愛を消すことだった。
それも、"無理やり"に消す役目を持った感情が、憎しみだった。
消えるのが自然なものだったら勝手に消えてくれる。しかしそうでないものもある。
不法占拠者に対してはしかるべき措置をとらないといけない。
それもこちらが正しいのだという体裁を保ちながら。
辛い役目だろう。しかし秩序を維持するためにはしかたがない。
相手を、状況を、何か必要なものを、汚し貶める。
それは必要なことなのだ。

愛よりちょっぴり強いわけも、そういうことだった。
それだけの強さを持たないと役目を果たせない。
これを管理するということは、それだけの強さを別の部分が担わないといけない。
困難だったわけだ,憎しみに従うのを拒否することが。
軽い愛情ならともかく。
しかし俺は憎しみを好かない。
したがって、俺は必要であれば愛を殺す力を身につけないといけない。憎しみ以外で。


■自分が考えているような物事は、この世のどこかでは体系的に整理されているものなのだろうか。
つまり学問として存在しているものなのだろうか

世の中に既に存在している体形、つまり学問をなぞる事が出来れば幸せな事なんだろうな。
世の中に認めてもらえる。
しかし、俺にとって学問は習得ではなく創造に近い。
そして、俺がつくりだし、磨いてゆきたい学問は、世の中に存在していなかった。

■既成物から非日常性や刺激を得る事は容易い。
しかし既成物から日常性を得ようとしてはいけないし、それは難しい。
そして、ある人の言葉を一部借りるならば、日常は円環では無くて螺旋なのだ。
それはつまり、"繰り返し"ではあるが、創造だっていう事だ。




1月18日
■人は人を舐める。
俺もたまに舐められる。
にこにこして素直でいて、主張はいざというときしかしないせいだけど
その人の為を思って俺はそう在るのに、それでいてその人が舐めてくるとなんだかなぁ。
自分の雰囲気を一瞬で張り詰めたものに変えて、萎縮させてあげたくなる。
徹底的に論破するか、暴力に物をいわせても良い。
本当の厳しさは常にオブラートに包んでおいてあげてるのに、それをわざわざ見たいのかと思う。

人間である以上、上だの下だのと意識する事があるのは仕方ない。
でもそう意識してる事を相手に悟らせるのは
相手を同じ土俵に無理矢理のっけてるのと一緒なんだよな。
事実としての上下はただの厳しい現実だけどさ。
個人の概念としてのそれは少し意味合いが違ってくる。
コンプレックス。
概念としての比較と、事実としての比較の違い。
比較自体が意味を持つかどうかの違い。

俺は誰に対してでも言う時ははっきり言うし
やる時はやるようにしてるからそんなに問題無いんだけど。


■人は生きれば生きるほど、生きる事に感覚が磨耗していく。
すれる、ともいう。
生きたい!って思う事は、どんどん少なくなっていくはずだ。比率的にはね。
勿論、少なくならなかったり増える人すら居るだろう。
しかし全体の傾向としては緩やかな下り坂となる。

磨耗する事は、安定性という部分においては、非常に利点があることだ。
世界を素晴らしいだなんて思わなければ、世界に失望する事も無い。
敏感であることは危険を伴うのだ。
生きたくなる。生きたい。こんな素晴らしくていて、危険な単語が他にあるだろうか

■人は、自分を救う事ができない人間から助けられる事が、往々にしてある。
その逆も、忌々しいことにたまにある。

■客観的な自殺はほぼ存在しない、だから人は自殺を認めたがらない。
一方的で重い我侭はあんまり愉快じゃないものだから。
あまりに一方的で思い我侭だから。



■人生や記憶は無くなってしまったモノ、戻らなくなってしまったモノばかりで構成される。
壊そうとしてももう手が届かなくて壊せないような、安定した物たちで構成される。
過去はなかなか信頼できる。

だからなのか、自分は過去を汚すことをひどく嫌う。過去を大事にする。
過去を大事にする、それはつまり残っていく過去達を愛せるように、今を精一杯大事にすることでもある。
過去を捨てたりはしない、そんなこととんでもない。記憶を消したりなんかしない。
いつだって自由に後ろを振り返って、そしてまた自由に、過去に囚われずに前を向きたい。
欲張りだと思う。ただその代償はいつだって支払っていく。
そういう覚悟は決めてある。


■成長といえば、体系について書いた。
成長する事とただ変わることの違い、はまさにこの体系にかかっている。
例えば、猿が人間になったこと、それはある体系に基づいている。
だから変化ではなくて、進化といえるわけだ。
順番というか、秩序というか、論理というか、まぁそういうものに基づいてる。

でも猿がいきなりカエルになったら(それはありえないけど)何の体系にも基づいてない。
だからそれは進化ではなく、変化となる。
でも、おたまじゃくしからカエルになるのは、体系に基づいているからこそ
変化ではなく成長な訳だ。

厳密に言うともう少し複雑な捕捉をしないといけないし、長い時間がかかる例を出したのはよくないんだけど
とにかく人間は、変化することも出来るし、成長、進化することも出来る。
それは体系にかかっている。





2月7日
■まだ書かない。日記からのコピペはこれでやめよと。

■その時期や時間や瞬間がなかったら、今の自分は居ないんじゃないか。
きっと誰もがそういう期間を幾つかもっている。

もちろん、どんな1秒だってその時間が過去に存在して無かったら今の自分は居ないはずなんだけど
殊更今の自分にとって意味を持つ。
そういう期間がある。

■にせものやいつわりや勘違いや、正しく知れば認められない物がきっかけだって
沸き起こった気持ちまで間違ってるわけじゃない。
どんな真実を知っても、自分の気持ちまで汚れはしない。


■後悔する時間は短い方が良い。
悲しめる時間は長い方が良い。



■学生になってから、朝を大事に出来て無い気がする。
無性に夜ばっかり大事にしている。
もっと朝を味わって、触って、抓ってあげる必要があるんじゃないかと。
過ごしてすらあげてないからなぁ、朝を。
ごめんなさい、朝。


■悲しめる事は、悲しめるうちに悲しんだ方が良い。
悲しめた事が悲しめなくなる悲しさを、知っている人間は少ないだろうから。
しかしそれが、人間が成長していくということなのだ。
必死に抵抗したっていつか悲しめなくなる。
風化していく。風化してしまう。

わざわざ時間に逆らって痛みを留めつづけたり、その後時間がやってくれるように自らの力で経ち切ったり。
思い通りに生きるのもなかなか大変なものだ。

いつかきっと、なにも悲しめなくなるだろうね。


■世界は、国語の文章題のテストと一緒だ。
ありとあらゆる答はいろんな物達に内包されて、ありとあらゆる形となって、世界に在る。
自分を含めてね。
そして人は目だけではなく、色んなもので世界を見る事が出来る。
例えば俺は、目で見るだけじゃなく世界を言葉でも見る。
人を見るのだって言葉で見られる。犬だっても。
匂いで見たり、色で見たりする人も居るんだろう。

つまりだ、答は常に見えてる。

考えたり悩んだりじゃなくて、見る。
だからつじつまを後になって合わせる事なんて、必要無い。
世界を目で見て、見事ではないとしても間違った形容が出来ないのが自然なように。
世界を言葉で見て、間違った事を言わない事は自然なことだ。


■俺は幼児性を認めない。
以前、幼児的な嫉妬や幼児的な醜さに、当時、子供であった時から我慢がならなかったと書いたが
当時から我慢がならなかったのに、今になってもそれを目にする事になると不快感も倍増する。

しったかぶりなんてのも、幼児的な醜さと括って良いと思う。
大人になってからだと圧倒的に目にする機会が減るでしょ?
つまり、人間の醜さと括るには幼児的過ぎるってことだ。
他にどんなものがあるかな、幼児的な醜さ。

幼いとか大人らしいとか、そういう言葉はとても範囲の広いものだけど
どうにか意味を限定して表現する方法が無いものかな。
ラベルを張りつけて別の場所に隔離しておかないと他の良い幼さまで汚れてしまう気がする




2月7日
■武者小路実篤の友情を読んでる。時代を感じる文章だ。
人間関係そのものに関して、またそれ以外の様々なものに関して
世の中に、表面的なノウハウや技術が溢れていないが為に、無骨な人間たち。
時代は生に真摯さを要求し、それがまた人に強さを要求する。
彼らにとって、生きる事は人として成長してゆく事だったのだ。今よりももっと根深い意味で。
洗練されていない事の利点がそこにはある。

無駄な力を使わない為のものが無かった為に、彼らは無駄な力を養っていった。
重要なのは無駄の定義だ。
無駄だと時代に切り捨てられてきたものが、本当に無駄なのかどうか。
答は現在にある。

今の時代、生きる事とはなんなのだろう。
個人が持つ答などではなく、時代が持つ答があるはずだ。
それはこれから更に変わっていくだろう。
その変化が生む結果や意味を、思い描いてみたい。


■心が狭くなんか無いと思うよ、俺は。
本気で許せない、なら心が狭いと思うけど。
でも、そうじゃないでしょう。
だったら、感情ばっと出して、気が済んで、みんなハッピーで良いんじゃないかな。

喧嘩するほど仲が良いって言葉がある。
それは喧嘩になるほど正直に感情をぶつけ合える関係なのは良いことだ、っていう意味なんだ。
それでも壊れない関係。
お互い正直でいられるって事はすごく良い事で、それをその言葉は表してる。
もちろん感情を出す必要が無いんなら出さなくても良い。
だから、喧嘩しないから仲がわるいって事じゃない。

つまり、いくらぶちきれようが、結構重大な事でも最終的に許せる人は本当の意味で心の広い人で
全然怒らなくたって些細な事を許せない人は本当の意味で心の狭い人だ。


■汚く、傷だらけで間違いだらけ。周りも自分も虚像ばかりで嘘ばかり、そして様々な表情に塗れている。
そんな若者達にある可能性を感じる。しかし、罪も感じる。
いつか気付き理解する事で罪は償われるだろう。そして代償にその可能性を失うのだ。
幸せであれ。


■多くの人はなにかを壊した時、まず元通りにする事を考える。
壊れてしまいそれを失ったという気持ちを初め、失ったものを埋めたいからだ。
変わりのもので埋めようとさえ考える。
それが創られた時にあった"本質的ななにか"が壊れていないのならば、またきっと貴重なものを創り出せるはずなのに。
まずまた創り出そうとはなかなか考えられない。人間は傷つきやすく弱いからだ。

村が壊されても、そこに住んでいた人達がいればまた村は再興できる。しかし、壊される前の村は絶対に戻らない。
そう、物理的なものだったらまだ多くの人間は理解できるのだ。少なくとも、もう戻らないと。
でもその人達の手によって、新たな村は生まれる事が出来る。


■人が激怒すると雰囲気は変わる。
全体が、圧迫感をうけたり重い雰囲気になったり、発言しにくくなる。

しかし実際にあからさまに怒らずとも、怒ったのと一緒のような雰囲気を作り出したり
自由にコントロールすることは可能だ。
仕草や視線や表情や間、口調などで。
そのほかにもオーラというか、なんかはっきり原因がわかんないようなものもまぁある。
威圧感のある人だとか、話術が本当に得意な人だとか
なんかこの人は特別な感じがする人だとかは、この技術を心得ているか生来の才能がある人なわけだ。

怒って感情的になったという弱みを持たずに雰囲気をコントロールできるし
上手く使えば、相手はなにがなんだかもわからずに萎縮する。
非常に有用な技術だ。
一種の雰囲気の暴力だ、とさえ言い換える事が出来る。

以前、一瞬で雰囲気を張り詰めたものにしてやろうか、って書いたのはこの事。
良い人ばかりで、使う機会が余りなかったのは本当に良かったと思う。


■余りにも強い人間ほど
つまり、余りにも孤独な人間ほど
ただ傍にいてくれるだけのことに、感謝しきれない。
強くなろうとしている人間ほど
つまり、孤独になろうとしている人間ほど
ただ傍にいてくれるだけのことに、感謝しきれない。


■自分の言ってる事は全部弱音だったら良いのにって思う時がある。
アメリカの大統領さんが言う。いや、NASAの偉い人でも良い。
「世界は滅亡するでしょう。」
弱音だったら良いよなぁ。
弱音を吐かないNASAの偉い人、にそんな事言われたかないよなぁ。

■万事に流れは存在し
その流れは全て抵抗の少ない部分を流れようとする。
良くも悪くもそれに逆らえるのは人間の意思だけ。

■創造する学問の面白さを知ってしまったら
学ぶことしか追求しない学問なんて手につかない。
いつかの創造に繋がっているからこそ、人は学べるはずだ。

■一つの個性を、象徴であり
それとともに実体の全てであるとして敬意を払うのなら私に出来る事はただ一つのみだ。
私の個性を傾けよう。
そうするしか、私というものの価値は何も生んではくれないのだ。






2月12日
■疲れた時考えると、良い場合がある。

ただ適当に友達でいる事に、抵抗とか色々な問題とかあるなんて、人間てほんと馬鹿らしくて愚かしい。
人間関係を難しく面倒にしてるのは、自分自身なのだよ、現代人。
皆仲良くが一番楽で、一番良くて、一番簡単だと思うんだがなぁ。
実際に、つまんなかったらつまんない、面白かったら面白い、好きなものは好き。軽い気持ちで正直にレッツらGO。
これそんな難しい事じゃないのに。
劣等生ばかりだよまったく。力抜けよ。
ああ面倒臭い。女々しい、せせこましい。青臭い。


■ストーカーが増えたのは
残念ながらストーカーする側のせいだけじゃないようだ。
される側の能力の低下もあるんだろうって初めて気付いた。

ストーカーという極端な状況は置いておいても、人間関係全般において
強く、優しく、能力があり、成熟した人間ほど相手の為を考えて
答えを優しくはっきりと、そして絶対的に示してあげるものだが。
年のわりに駄目駄目な人間が増えたんだろう。
相手の心身状態によって、ケースバイケースだがな。

察して察して、って常に他力本願。そういうのって女の腐ったような感じだ。
男だったらどかんといけよ。
相手にとって多少厳しくてもばしっといくべきだ。
まぁ男じゃなくてもな、大人ほどそれがわかってる。

男らしくて強くて成熟した有能な人間同士だったらしつこさなんてもともと生まれ得ない。
そうだろう?
相手がしつこかったら、まず自分の無能さを恥じるよ、俺は。
というか自分のせいだって気付けない人間も多いだろうな。相手のせいにするほうが楽だからな。
しつこい人に出会った経験が多い人は一考した方が良い、自分の女々しさを。

実際俺は、他人がしつこかった覚えがほとんど無い。
まず優しくはっきり言う。その後厳しくはっきり言う。そのあと攻撃態勢をとって注意する、
それでもやめなかったらぶんなぐる。それでもやめなかったら動かなくなるまで殴る。
男万歳。大抵厳しく言うところで相手はしっかりわかるからな。
しつこい人と出会えないわけだろ、俺が。殴るまでいったら相手がしつこいんだろうがな。
ほんとうのしつこさってのはなんなのかって話だ。
自分の弱さ無能さ幼さがしつこさを生むって話だ。自分を恥じろ。
何をはっきりさせないといけないのかを理解しないといけないって話だ。
まぁもう少し成長すれば誰でも分かるだろうとは思うが。

まぁ全部自分のためでもあるが、相手の為でもある。
問題を起こさないように、然るべき義務は果たす。それが出来ない人間が増えすぎてる。
なんか間違った事言ってるか。


たまったガス抜き。
俺って本当に外に対して肝心なところで甘い。いつか出来る子供にも甘くなっちゃいそうなのが見え見えだ。
甘やかすのは良くないって、言い聞かせないと。
甘くしたらつけ上がるような子供じゃないって信じたいけどさ。


恋と愛についての文章は長いので推敲もめんどくさい。
きりに相応しいだろう。
しかし、一気に俗っぽくなったな。
俗なものに触れたからだろうな。






2月13日
■ある人間は
1回目に偽りを貰って、2回目に自分の力で真実の断片を引きずり出した。
そして3回目に真実を掴みとった。
思い込みとは愚かなもので、自分がやってあげるしかなかった。
機会は三回。必要最低限。

ある人間は
厳しさをある人間に与えてあげた。甘やかしすぎたようだ。情のせいで。

ある人間は
醜いものを見てしまった。
だが自分はそうはなるまい、それを哀れむまい。
憎まないし、恨まない。
ただ、そのものの為に責めてあげなければいけない。
弱さを幼さを。
そして、幸せを祈らねばならない。

ある人間は
主観的にも、客観的にも否定する事になってしまった。
自分を認めているだろうものを。
自分が否定する事の意味の大きさを、その人間は知っていた。

ある人間は
より賢く、より強くなった。
さらに誰よりも正しく良い人間となった。
だれも否定できないくらいに。
そしてさらに誰より不幸になった。
しかし、幸せで無い状態ではなくなった。

ある人間は
ある人間を救えなかった。
でもある意味救った。


そうして、ある人間は
本当に救われた。
それは上で語られているように、とても残念で悲しい事だった。






3月28日
■本来なら
誰が記したかということには関係無く、その記された文章自体が意味を持つ文章しか載せたくないんだけれど。


諦めるということは一種の呪縛からの開放とも言い換えられる。

呪というものは文字面をみるとあまり我々現代人には関係の無さそうなものだけど
実際には現実に、特に現代社会に溢れている。
形の無いものに縛られるという経験は、ちょっと考えてみればいくらでも思い当たるはずだ。

例えば絆がある。
いくら嫌いな親でも、親子という絆が見えない部分で縛り付ける。
火と氷を縛りつけたら互いに互いを消耗させるように
相反するものでも、呪縛というものは縛り付けることがある。

そう考えれば、人はありとあらゆる呪にかかっている。
なかなかそれに気付かないだけだ。

しかし、呪縛が悪いものだとも決めつけられない。
呪縛が人を救うこともある。
例えば、良心的な犯罪少年更正施設などは様々な意味で強く相手を縛ることによって救う。
真っすぐ向かい合うのは辛い事だからこそ相手は逃げてしまう。それを呪縛で封じる。
何事も見なければ解決できない。目を瞑っても何も消えない。
それを判っていても、人は弱さゆえに逃げてしまうから、呪縛は必要なのだ。
大きな問題を抱えた人間にほど、大きな呪縛が必要な場合がある。


■漫画に出ているような情熱家が
信念や自分にとって大事なものを守る為にどんなに頑張っても
諦めざるを得ない自体に陥ることがある。
その一つが消滅だ。
概念的にも、物理的にも、意義的にも。
拠り所が消滅したら、対象が消滅したら、いくら強い力がかかっていても
その力は作用を及ぼせなくなる。
全力で物を押している時に、地面が消えたら、押しているものが消えたら、作用の及ぼし様が無い。

そうなると、ふっと力が抜ける。
強い力をかけていた時に、その力を無効化するような消失がおきて、ふっと力が抜ける。
この感じ、見たことあったり感じたりした事がある人もいるんじゃないだろうか。
ドラマでも良くある。
ある一つの消失が、ふっと人の力を抜かせることが。

反転と消失は違う。
大好きが大嫌いになるのと、大嫌いが0になるのはちがう。

そう考えてゆくと、消失というものは最大の救いだ。
憎んでいた相手が、救いたかった相手が、死んでしまう。
行方不明なら探せばなんとかなるかもしれない、生きてさえいればなんとかなるかもしれない。
しかし死んだらどうにもできそうもない。
どんな情熱家だって、現代に生きていたら、諦めざるを得ない。

絶対的な諦観をもたらす消失は、最大級の救いだ。


■完をもって了とする。
そして、完をもって成とする。
限りなく悟入に近い。
壁にもう穴は無い。完全な壁だ。

悟入の域は、狂人の域と似通っている。
ただ一箇所違うところは、此方への道がある事だ。此方の世界への。
狂人の中にはこちらの世界への道が無い。
その事実が彼らを、より完全で完璧な状態に完成させている。






3月28日
■ここに書いた事はどんなものであれ、後で消したくはないんだけど
以前に書いたどーしても消したかった意味のない部分については消した。
あらゆる意味で視点を下げて色々書いたので、無益で愚かな文章だったことだろう。
今後は意図的に視点を高めて、厳密で剛毅な文章を書いていきたいとおもう。

転機というものは、転機が来たと思っている時点では
まだ転機じゃないのかもしれない。
転機が来たと俺がここでいったら、それは嘘になるかもしれない。
自分自身が遠く離れてやっと転機という奴は固まるんだと思う。
だから、限りなく予想に近い断言だが、この辺りが転機になるはずだ。
純粋な論理を紡いでいきたい。

それには落ちつきと時間が必要なのだが
少し今はせっかちな気分なので、また今度からという事になるだろう。
十分に狙いを定めて、十分過ぎるほど力をこめた文章というか。





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