独 り 言


3月30日
■しきりなおし。

残したいくらい素晴らしい論理があるから、それを記しておこう。
というのがここの主旨のつもりだったのだけれど
衝動ありきになってきてしまっている。
書きたい事があって、それを体裁良くまとめよう、見たいな感じになってる。
歪んできたなぁ。この変動が面白いといえば面白いんだけどさ。

04年1の点数をつけるとしたら
前半が65点で後半が30点かな。
残す価値が無い。腐っている。
しかし、腐ったものは良い堆肥になる。

この程度の言い訳しかできない。

期待外れだぞ、お前ーーーーーーーーーーー。

すいません。

謝ったからには何とかしなきゃあ。






3月30日
■日記からいくつかこぴぺ


■人間は感情的に他人を否定するという事を舐めてる。
感情的な否定は、多からず相手の存在自体を、存在の一部を否定するという一面を持つということを舐めてる
部分的な否定が、その人間を完全に否定するという事にまで発展する可能性があることを舐めてる。
俺がほぼ全く、感情的に他人を否定しないという事実を舐めてる。

感情的な否定の延長線上に、口喧嘩があり、殴り合いが在り、殺し合いがあるというのに。
感情的に価値観的に、他人を否定した事のある人間が
単に認めないわけで無くわざわざ能動的に否定した事のある人間が
戦争に異議を唱える事は面白おかしい。
感情的な否定が無ければ世界は平和なのだ。今よりもずうっと。

宗教は多くの戦争を生んだ。
論理的な理由でなく価値観的な理由から相手を認めず
その否定に相手も答え、否定し返したからだ。

感情的な否定は否定を呼ぶ。相手からの否定を否定しなければ否定された事になるからだ。
存在の一部が。
無視できる事なら良い、縁を切れば済む事なら良い。
しかし、それで済まなかった場合、否定に対し相応の否定が返って来る。
その結果は口喧嘩であったり、殴り合いであったり、殺し合いであったりする。
論理的な否定のように決着がつかないから
その存在の否定を完了する事によって決着をつけるしかない。
部分的なもので済めば良いが、部分は全体を担うものだ。
それが、相手を殺す事にまで発展し得る理由だ。

こんな平和な日本でも
人間と出会うと、殺せるかどうかという観点から一回は見る事がある人間もいるのだ。
延長線が見えるからこそ他人の否定に厳しく慎重になる。
その厳しさはもっと厳しい部分に支えられている。


■目的を持った組織から何をとったら目的を持った組織では無くなってしまうだろうか。
それは評価だ。
統率を失ったら、組織ではなくなる。しかし評価を失ったら目的を持つ資格がなくなる。
ただの組織になる。

まぁつまりこういうことだ。
脳が、自分の右腕が何が出来るか、どう動くか、今どんな状態なのか、どこにあるのか、どういう命令系統で命令を通達するのか。
そのような事を評価できていなかったら、右腕は動かせない。

評価という言葉は聞きなれないかもしれない。
砕いて言うと、把握して理解する、ということだ。
価値を評する。
今置かれている状況、人材の能力、問題点、課題、反省点、士気。
管理者は、そのような事を把握して理解しないと行けない。
つまり評価しないといけない。
そこの彼がどんな人材なのか評価できていなかったら、何もまかせられない。

評価力。管理者にとって、一番基本的な求められる素質だ。
そして何にも言える事だが、基本は大事だ。


■日本しか知らないから日本での話だけど
生まれてから二十歳までの人生のイメージは、1年ごと、いや1ヶ月ごとかもしれない、それくらい緻密に存在している。
例えばドラマとして、漫画として、小説として。
学生生活、社会に出始め、子供時代。緻密に人生のモデルとでも言うべきものが存在している。
比較対象と言っても良いかもしれない。
モデルというか、人生のイメージが転がっている。緻密で豊富に。

しかし、二十歳を超えてから、その密度はぐっと薄まる。
種類も減る。あれだけ豊富にあったモデルは一気に減少する。
27歳の一般的な人生とは、ドラマ的な人生とは、小説的な人生とは、映画的な人生とは?
20歳までだったらどの年齢をとっても、何らかのモデルが存在するのに。

20歳から45歳までがまるで一つの単位のように感じられてしまう。
25年間仕事に頑張って、いろいろあった人生。オプションとして結婚有りか結婚無しかがつく。
そんな感じだ。

それはそれで正しいのだと思う。
むしろ、既成物から作られたイメージが無いだけ、ある種良いのかもしれない。
イメージなんて作れないほど可能性が広がっているんだって捉えるのが素直かもしれない。

ただ、やっと気付いたものでね。


■もし人間という括りで、我々が存在していなかったら。
共通点が皆無だったら
アーティストも政治家も小説家も格闘家も音楽家も、誰に対して何を訴えかける事も出来なかったかもしれない。
共通する部分がなにかしらあり、そこに働きかける事で共振し、何かしらの共感を呼ぶ。

一人の人間は、絶対的に他人とは違う。
そしてその上で"一緒なのだ"と言う事をもっと深く理解する必要がある。


■始点を変えよう。
生物は、繁殖する。
人間も生物だ。
生物は本能に繁殖という目的が組みこまれている。
大抵の動物がそうであるように、優秀な遺伝子を子供に残そうとする。
なにもをってそれを判断しているか。
それは基本的に、見た目だ。

だから、見た目を重視する感情、そして繁殖欲求に、つまり性欲に属する感情
異性に対して発動する感情
以上の三つの点で、その感情を本能的な感情だと定義する事が出来る。
実際に、人間が顔を見て相手を選ぶその行為は、相手のDNAや遺伝子に基づいた判別行為だという調査結果は出ている。
さて、これを恋と定義しよう。

内面性を重視する感情、つまり相手の人間性や価値観や感情を重視する感情
異性に対してではなくても発動する感情、相手をいとおしく思う感情
これを愛と定義しよう。
ちなみに、辞書では愛と恋を同義に扱う意味もあるし、そうでない意味もある。
幾つか意味のある言葉だから。

したがって、恋と似た感覚は多分動物にもあるだろうと推測できる。
しかし、動物には感情が無い為、人間の愛と比肩する愛をもつ動物は、人間以外にはいないだろう。
愛は感情に基づいた感情だからだ。その為、愛は感情的なものだという事が出来る。

面白い事に、恋と愛は矛盾を起こす可能性がある。
畑に種をまくという行為には、優劣と効率性以外のものは必要無いからだ。
たった一つの特別ななにかをもとめていたら、繁殖して栄えられない。
つまり愛は邪魔をする事がある。

また、これらの事実は、女性の繁殖能力にも密接な関係がある。
女性は男性と比べ、繁殖能力の最盛期が短期的だ。
それが原因で若い女性は感覚的なのだといえる。
愛なんて強くて特別なものと結び付いてしまっては、効率的に繁殖できない。
女性の最盛期は短いのだから、引きずったりしないでどんどんと試さねば行けない。

25〜30歳前後から、女性は男性を形ではなく内面で見るようになる。
これが恋重視から、愛重視への過渡期だ。ちなみに男性は一生女性を形で見る。
これは、繁殖能力がかなり老年まで機能するという事実に基づく。
女性は愛が強くなっていくわけでなく、恋を重視する必要性が薄れて、感覚性が薄まったからだと推測される。
繁殖能力の減退がその理由だ。

良く言われる恋愛と結婚の溝は、そのまま恋と愛の溝だと言い換える事が出来る。
人間性の強い結び付きを必要とするか否か、というところがポイントだろうか。


急ぎ適当にまとめてみる。
ここはちょいとまだ付け足す事がある。


■日記と一つ前のページの独り言をさーっと読み返してみた
そしたら、もうなんつうか、全部消してしまっても良いくらいに感じた。
当時の"感覚"が今無くなったから、当時あった価値が無くなったのかな。

それを起こさないようにしようとしてきたつもりなのに
変わってきてるなぁ、やっぱり。
本当に客観的な論理だったら、いつだろうがだれだろうが、変わらぬ価値を持つはずなのだ。

別人の俺、という突っ込み役が欲しいな。

ともかく、日記でこっちにコピペするのも一通りチェックしたし
ページも換えたし
意図的なけじめつけないと。




4月3日
■前回書いたのが遠い昔のような気がする。


幸せという概念がある。
コンプレックスという概念がある。

優劣に基づいた見方が出来得るもので、幸せという概念はある意味で最大級のものだ。
確かに人間の中では強いものだが、それだけじゃない。でかい。
そしてかなり根本的なものだ。
ここらへんがちっと特殊である。

そのことが、幸せという概念を
しばしば人間にとって最大であって根本的なコンプレックスにしている。
最強じゃなくて最大。


コンプレックスを解決する事が出来る人間がいる。
比較によって自分の位置を測るので無く
事実によって自分の位置を測ることが出来る。
そうできるようになれる人間。

他人より優れていたり劣っているからどうなのかではなく
その要素全体の中で自分がその位置に居るからどうなのか、と捉えられる。

わかりやすく言えば
A君より点数が高いから、いったいどうなのか。
100点満点で80点だった、100点だった、10点だったから、いったいどうなのか。
コンプレックスを解決するためには後者の領域に入らないといけない。

コンプレックスを克服してきたであろう強い人間を、幾度か見てきた。


しかし、幸せに関して、他者との比較を根絶する事を人間はなかなか出来ないもののようだ。
あまりにも大きく、絶対的な優劣だと捉えてしまい
優劣を無視する事が出来ていない。
他人よりも幸せか幸せじゃないかというものは、それだけ大きな意味を持つものらしい。

そしてもう一つ、人生という継続的なものにおいて、生きている限り
人生に対する認識は期間であり一部なのだ。結果ではないし、全てではない。
終わりなどは、"在る"限りやってこない。
あまりにも大きく、絶対的な優劣だと捉えてしまう為に、この事にも気付き辛いらしい。	
だから、今は幸せではない時期だと捉えられず、私は幸せでない、などと結論的に捉えてしまう。

だから人は"幸せじゃない"とはなかなか認められない。
むしろ"不幸だ"ということの方が認めやすいらしい。
面白いものだ。

特に、その傾向は現代において段々と強くなってきている。
自分が自分に、今までよりも大きく意味を求める時代となってきたし
比べる対象となり得るものが氾濫している。


ほとんどのコンプレックスの根を辿ると、幸せか否かの領域にいきつく。
それはつまり、幸せに関してのコンプレックスを解決できれば
他のコンプレックスが生まれる事は無いということだ。

だからこそ、絶対的に不幸だった人間は強い。
認めないという選択肢が、つまり逃げ道が無かったからだろう。
強制的な厳しさが強制的に鍛える。
不幸な境遇に育った人間が強いのは、そういう理由がある。
個が、比較に頼らず個として成立している。
許容しつつ、無視できる。

現代において、不幸な境遇というものが、減ったのか減ってないのか良くしらんが
今まで出会ってきた中で
幸せについてのコンプレックスと真正面から渡り合えていた人間は少ない。
全く無関心であって、気にしていないのじゃなく
コンプレックスを持"て"ながらも解決をしようとした、もしくは出来た人間という意味で。

ある事に無関心な人々は結果として
そのある事を収拾する為に頑張ったり強さを持っていた人間と同じ結果に辿りついたわけだけど
そこには、過程がなかったし、選択肢ももっていなかったわけだ。

自分がコンプレックスを現在全く持たないのも
幸せという根源的な部分を、他と比較する必要が無いからだ。

A君とくらべて今人生が幸せだから、いったいどうなのか。
自分の人生は今こういうものだから、いったいどうなのか。

比較出来得えながら、比較しないという事は、人間にとってなかなか難しい。




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