独 り 言


11月09日
■6月7日が最後だったから5ヶ月ぶりか、この5ヶ月もいろいろあった
まずサイト閉鎖。閉鎖した理由はちゃんと説明して無かったっけかな
エミュレーターという性質上、現在から外れたレトロゲーが主になる
その新しい機種の中である事、活気がある事の両方を高い水準で満たすのがSFCだろう
SFC世代は何歳くらいかな、今の中学生とかはゲームはPSからな子が多いだろうか
そういうことを考えるとネット、それもエミュ業界にまで流入し
エミュレーターに興味を持ちうる人口はもう頭打ちではないのか、と
SFC知らない奴はいちいちSFCやろうとも思うまい
確かに以前のような活気は無いがそれはこの理由によるためではないのだろうか
少し思い浮かべてみても知り合いはみんなサイトを運営していて前半期に知り合った人ばかりだ
さらに海外に全部そろってしまっているという事、そのブロードバンド化が進んでいる昨今
人は何のためにコミュニケーションを望むだろうか?
これが一つの理由であり主な理由だ
そして今まで続けてきた理由として自分の居場所が欲しかった事
一回本拠地としてBBSやホームページを持ってみるとなかなかに居心地がいい
ただのネット上の巡回者となる事はもう考えられなかった

そしてニュース紹介ごっこをするHPを立ち上げたわけだが
これは単に暇だったのもあるし、いろいろなコツを習得できる
そしてある方向に進む事で得る事が出来る安定性も悪いものではなかったからだ
しかし自身をもって他人に見せる事の出来る"コンテンツ"なぞ作る事が出来るわけでもなく
まだ身内や自分の居場所を確保しただけのような感じだ

■宗教というものは人に一人でいながら客観的な価値観を持たせることが出来る
またそれを目的にしている
そして海外では主にその国の道徳を教育するという役目を宗教が担っている
しかしその客観的な価値観その人間の意識の中で不可侵的なものとして定義される
ここが厄介なんだ、くぎで補強されれば安定するがそれだからこそ動かない
人間に必要な柔軟性を著しく損なう、宗教に限らず信仰というものはそういうものだ
人間が精神的な進化を進めていく上で必要なのはそのような補強に頼らず自己を確立する事だろう
アメリカのアフガニスタン空爆によってのイスラム圏の反応を懸念したさい
こんなようなことが頭に浮かんだ
イスラム教はまさに前述した宗教的な特色が色濃いからね

■反発する事は大きな力を生む
野球だって投げてきた威力のあるボールをバットでかっ飛ばすし、球技でボールを使うのだってそういう理由だ
世の中にあふれている保護は新たに生まれ出てくる力を抑制している
角をなくすのはいいが反発できる部分をなくすのは、つまり過剰な保護は若者の育成にとってデメリットでしかない
デカルトは考えるという事はNOという事だという格言を残したが
NOという事、そしてなにかをナンセンスだと思うことはそれ以上に新たな力を生み出しているのだ
球技などボールの反発力が必要ないほど人間のちからがあれば極端な話丸い石だっていい
だがそれは無理だ、反発力に頼らず先に進みつづけられるほど人間は強くない
また効率を無視するほど馬鹿でもない、はずなのだ

■時間の経過によって怒りや悲しみもそして憎しみさえも消え行く
以前は段々消えて行くという漠然としたイメージしか持っていなかった
しかし最近、とはいっても5ヶ月前より最近だが時間の経過は
時間はそのようなものを薄めていくのだというようなイメージを持つようになった
ある限られた時間枠を人生という水がめとすれば時間という水を注いでゆき中の要素を薄めていく
そういう風に例えて考えるとまたいろいろ面白そうだなと思ったり


【LEDの教え子に対してのレス】

正直、レスポンスくれて有り難い
アドバイスをもらった事に関しては全然心配無いと思ってる
もちろん他人を他人として認める事の出来る力もあると思ってるよ

年功序列についても、年齢だけで威張られるのは叶わんが年齢に伴う何かを認めさせてくれるならば
自分は素直に認めることの力を持っている

まぁつまり自負は持っているってこと、それもかなり強くね
若者は自分を特別だと思う傾向にあるそうだがそれと同じものではないとも思ってる
また他を認める力を持たないものには自負は生まれないからね

本当に他を認める力を持っているだけの人では社会や大衆には認められにくい
すべてを理解してもらえるのは物語の主人公くらいのものである
現実において、「自分」を自分が思ったように、社会や大衆に理解させ認めさせるためには
結果という点をうまくうっていくしか無い
そしてその点と点の間の線分を社会や大衆自身に補完させ「自分」を自分が意図したように認めさせるしかない

つまりそういう風に自分に直接接しているところと一般や社会という風に
間接的に接しているところへの区別もあるし、仕組みも理解している

あなたの悪く言えば高圧的な態度、はもしかしたら年齢から生じる自負に関係しているのかな
年齢の上下関係はインターネット上でもある程度の推測を持つことが出来るし
例えば自分が60歳だったら、話す人ほとんど年下だ、とかね

それとも自分と同質の自負から来るものだろうか
でもここに書くという事で構えて書いてるけど、現実は普通だしネットでも普通だし
どちらかといえば低姿勢なタイプだけどね、自分は
だからどちらにせよ個性が関係しているんだろうな

正当な論理とは感情に起因せず、感情を伴わず、感情を引き起こさない
それに則して感情を切り離す術も知ってる、そうすればほとんどの事には対抗できるとも
だけどそのような人間性を伴っていないと対抗できないものもあると最近気付いていろいろ考えてる

長々書いてしまった・・・、自分のサイトの独り言に転載しとこう
独り言のような事はあまりレスポンスが存在するところに書くべきものじゃないね

良くも悪くも何らかの影響をもらっただろうし、良くも悪くもあなたには敬意を表してる
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11月19日
■感情の推移に人間関係ってものはものすごい影響力を及ぼすな、と思う
話したりすると無性に楽しいとか、遊んだりとか、ちょっとの間、時間を過ごすだけで
生命力がからだの芯から涌き出てくるような感じがして、感情が上向く
逆に期待どおりの反応を得られなかったり、嫌いな奴から嫌いなことされたりすると意気消沈したり、ね
そしてあまりにもこっちの思いが強すぎると被害妄想や意識過剰なんかも生まれてくる
やっぱこっちが楽しいとかうきうきすると相手もそう思ってくれてたり
自分が嫌いな奴は相手も自分の事嫌ってたり
でも、ぜんぶがそういうタイプで分けられないからまた人間関係ってのはややこしいし神秘的なんだよな
物,とかそういうものでも似たような事にはなるのかもしれないけれど
やっぱし人間は集団生活を基本としていきていくから人間関係の影響力がまず目に付く

ほんと、なんでだろう。大体感情の移り変わりってどうなってるのかもわかんないけどね
脳の中になんか分泌物が出て来たりするからなんだろうか
記憶すら操作できるような時代を元にした小説や物語でも感情を操作したりとかいう記述は
今までいろんな本とか呼んだ中でもぜんぜん覚えがない
服用するとうきうき楽しくなる薬とか、余裕をもって接する事が出来るから他人にやさしく出来ると思うし
麻薬のような中毒性や問題点が無ければみんな欲しがりそうなものなのに

ともかく、男でも女でも、人間として人をすきになって相手もそう思ってくれるとものすごく嬉しいって思った


■ガンジーはこう言っている、『人は思想において、言葉において、行為において絶対に
喜怒哀楽の情から開放されなくてはいけない』
ガンジーががしようとしていた3つの戒めのうちの一つらしいんだけど、彼自身出来ていないと自省していた
しかしこの格言は自分はナンセンスだと思う、理想が高すぎる
人間的でなければ人間的な事は成し得ないのではないか
むしろ必要とされるのは必要とされる場合においての感情の規制だけであって
各個人の日常における人間らしさは別に規制されるべきものでもない
だからこそ自分は『正当な論理は感情に起因せず,感情を伴わず,感情を引き起こさない』
という格言めいたものを自作して常に心に含めている

幸せがあるから不幸があるのである、これに基づけば幸せなど求めなければ不幸にはならない
幸せを欲するのは人間的な感情であるから、不幸を感じそうだったら感情を切り離してしまえばいい
そもそも不快に思うのだって感情そのものが無ければ不快になど思わない、そういうときも切り離す
この技はものすごい効果がある。より幸せになろうと努力するとか、逃避とか。
そんな事をする必要はない,感情を捨て去る事さえ出来れば
しかしすてっちまってもう2度と戻らないようだと逆に不都合だ一生幸せにはなれない
だから一時的に切り離して隔離する
だまされたと思って、危ないときにはちょいと自己暗示をかけてみるといい
何のこといってるんだと思うかもしれないが
きっと極限まで絶望した事がある人はなんとなくわかるかもしれない

しかし世の中では論理だけでは抵抗できない、経験や人間的な強さを求められる事だってたくさんある
感情や自分を捨てて引きこもるだけでは駄目な事だってあるということは理解した方がいいこともある
んでまた抵抗をするに当たって対象が個人だったり
社会とか世間というある種のグループ,組織だったりでまたぜんぜん違うし
まとめて説明しようと思ってもどんどん枝分かれしてってカバーできない・・・





11月20日
■以前書いたことはもう過去のもので見ないようにしている
しかしちょっと前のをちらと見てみたりするとそのときそのときによってぜんぜん違うなあと思う
っていうか以前のにもそうやって書いてあった、そのときそのときの気分によってぜんぜん違うから面白いとか
本来もっと簡単につづろうと思っていたものだけど
新たな発見や新たな思いつきが出てこないというか、自分という人間の完成度が高まって固まってしまったなぁ
と思った
もちろん完成度が高まったというのは誉め言葉でもなんでも無い
ここらで一回ちょっと,過去のものを見返してみようかとも思った
なんだか書く意気が出てこない
この11月20日を一つの収束点としたい、もう一回広がらせてみたい

■自負なぞ,くだらないものだが
自負が存在しなければ、自分が自分を認めなければ、一体だれに認めてもらうというのだ
認められるにも二通りある
結果によって認められる事。結果を含めてもかまわないが,そこまでの道のり,やり方、つまりは本質を認められる事。
自負は後者を孤独にも支えつづける
そして後者の顕示欲は常に賛辞に飢えつづける

■前2回のをちょっと読み返してみたけど,そこまで程度が低くなってるわけでもないなぁ
良かった良かった
反発から力を生むと以前書いたが、最近楽しいし特に反発しようと思うことも無いので
だからなんも沸いてこないのかなぁ,とも思った




11月20日
■インスピレーションとは無から発生するわけではない
そもそもこのわれわれの宇宙が発生して以来無から発生したのでははないかと思えるものは
この宇宙自体くらいのものではないか
ただ材料が混在するだけでもなにも生み出せない、何らかのきっかけが必要なのだ
それは自分で起こしうる事かもしれないし,自分の外部からの刺激によって成せるのかもしれない
この事実を念頭に置きもせず、なにも思いつかないなどとのたまっていた自分は大馬鹿者であった
自然に反応が発生することなぞ期待せず、これからは自分で反応を引き起こしてやれ、と自省した

■行きなり心を奪われたり,段々と心を奪われたり、ある事に心酔するまでの経過はさまざまだ
最近好きになってきた、といっても読み始めたのは高校の始め辺りだろうか。柳美里という小説家がいる
最初正直あまり好きではなかった。『石を泳ぐ魚』であったか
作中に出てくる人物のモデルとされた人物が訴えを起こして敗訴をしたニュースで始めてみた覚えがある
まず、自分が惚れこんでいった理由として、文章の鋭さがある。息をつけないとでも言おうか
まるで読み進む事が、同時に刃物をつきつけられているような印象を受ける
彼女の学歴は中学卒であるのに、何故こんなにたくさんの言葉を使いこなせるのだろう
音楽家は音符を操り、画家は色を操り,小説家は言葉を操る。
自分は以前から小説を書くということにおいて考え方の斬新さや発想力などとは別に
構成力や語彙力、など素質ではまかなえない,技術が必要だと思っていたからこそ驚嘆したのだが
彼女はどこでそれを見につけたのだろう
考え方の言語化はやってみればわかるがなかなかうまくいかない
書くときに、ぴったりだと思える言葉を見つけるのは難しいものである

そのような文章に魅せられたという事もあるのだが、自分が彼女と話したいと思っていることも要因だと思う
本を読んでいて,自分がこう思うことを作者ならどう思うのだろうと思うようになれば
もう、その作者の本には惚れこんだといえるのではないだろうか




11月27日
■人は喧嘩をする
発展すれば殺し合いとも呼ばれる、やはり動物であるからこそ闘争本能をもっているらしい
いきりたって襟をつかみに来る奴とはか慣れてない奴の典型
動物であり、闘争「本能」であるからこそ自動的に体は戦闘態勢に入り精神が緊張してしまう
うまく事を運びたいならばまずそれをなくすことだ、本能にとらわれる事を自分で制御する
もちろん、お茶会をする気分で喧嘩しろなんて言ってるわけじゃあない
やはりここでも両方を選択し得ることが出来る状況を自分で作成し使い分けることが重要だ
本能やそれに属するアドレナリンなどは身体機能の増幅、また痛覚を麻痺させられるからだ
喧嘩を例にして、ある方向に進ませられるので無く、出来る限り自分で方向を選択できる状況を作る
ことが、以前から言っているけどやはり重要だと、まぁ言いたかっただけ
あと、多少やったことがあるやつが相手ならよわいの二人でもきついはずなので逃げましょう
また一般的に動物は体重の違いで強さを分けるけど、人間は身長があるので
自分も相手も普通だったなら、10センチ違った場合は逃げた方がいいかも



12月3日
■人工物に感じる美しさ、自然なものに感じる美しさは違う
もっと簡単に言えばフリーハンドで描いた線に美しさを感じるときと
線引きで引いた線に感じる美しさとの違いのようなものだ、そして人間にもこの違いはやはりありうる

論理的に洗練されてないという事は人間的に洗練されているという事かもしれない
やはり人工的で無い、いわゆる自然なものはその固有の美しさのパラメータが別にあるわけで
人工的なものと比べられるものでもない、そしてこの二つは共存できない
自分の言ってる事の唐変木さに気付いた時点でその人間は論理的だからだ

きわめて論理的でない人間は方向修正するのが難しい、突き進む
だからこそ自然に美しさをもつ宝石のような貴重な存在である、そのままで美しい
論理的に事故を洗練し,醜さを隠すのとは段違いの魅力があると思うのだ

■『窓際のとっとちゃん』をよんだのだが、作中にでてくる登場人物がこんなような事を言っていた
気付かない事が恐ろしい,と。林檎が木から落ちたのを見たのはニュートンだけではなく
池にかえるが飛び込むのを見たのも松雄芭蕉だけではないだろう、と
より多くの事を感じ取り、かつ多くの事を気付きたいものだと思う
もちろん自分らしい事を感じ取りたい、そして自分らしさが他人になにかを与えられたらいい事だと思った

■現実世界の年功序列をそのままネットに持ちこむ輩がいるがそれはまったくの間違いだ
もちろん自分は基本的には年上にある敬意を持つが、持たない奴だっているだろう
そして年下にも理解を示す人もいるがまったく示さない奴もいるだろう
経緯の有る無しを重要視する奴だってきっといるだろう、そこまでは現実といっしょくたにしていい
重要なのはその有る無しの事実が何の決定的な影響力も持たない世界だという事だ
影響力を受けざるをえないような事は存在しないという事だ、現実世界との接点しかね

ネット上での老練とはまずそこのところを理解した上で双方をきっちりわけとれる人間の事である
少なくとも煽られなれてない人間はだめだし、煽られ慣れないような人間はROMに専念するべきだ
もちろんただ何も感じない人間になれとはいっていない
現実的に,感覚的に、質量があるから破壊される。現実においては破壊されにくいものだからと
勘違いしてネット上にも同じ質量の感覚で持ち込むから手痛い応酬を食らう事になる、言論だとか信念だとか。
一定の物理法則のようなものに従っていないからこそ難しいところだが
ネットと現実で混ざり合ったような立場にいるような人間はまた考えないといけない所だろうけどね

■どうも知らんうちにテキストサイト界云々とかいろいろ論争が巻き起こってたらしい
結局閲覧者がいなければ子供のお遊びと変わらんような影響力なのに
俺が本当におもしろいと思えるテキスト系サイトなんて本の一部なんだけどな
アクセス数増加論とか展開させる前にアクセス数の価値について議論しやがれ、とか思った



12月15日
■柔軟な思考や鋭い指摘はネット上にあふれているが、それが注目されるのは影響力が存在するからである
しかし影響力といっても、影響を受けざるを得ないようにする、とかある人間への自発的なきっかけとなる
というような程度の影響力でやはり口述の影響力とは異質である
なんというか決め手にかけるというか、すかすかしているというか、突き詰めると先っぽまでが短いというか
上手く意見の口述と記述の違いが言葉で表せないが、明らかに違いは存在している
例えば異性に告白するとする、そうするとやはり記述形式の意見の伝達では上に書いた例が当てはまるのだ
決め手にかけるというか,すかすかしているというか,突き詰めると先っぽまでが短いために
記述で相手に決め手となる求婚や求愛の意志を伝える人は少ないだろう
そこの部分を混同している人がいることがある

ネット上で他人に考えを伝えたり、認められたりと言う自信を現実に持っていってしまったり、またその逆をしてしまったり
前者では実際相手と対峙する事の威圧感や、その場で言葉にする事の難しさなど足りないものがあることに気付かづ手痛い思いをする
程度の差はあれど,ね
また後者ではネット上で第一に重要視される事を勘違いし、頭でっかちな考え方
意見の押し付けに発展しやすい
現実ではネット上で隠されている要素があるために相手が思いどおりに動くという事が多々あるのだ
むしろネット上では出来る限り洗練した論理を置いておくだけでわかる人は自発的に気付く
もっともっと簡単に箇条書きやタイプ分けではっきりと書けると思うが、まぁそんなところ

インターネット上での気付きはある程度能力が必要だが、浅い
現実での気付きは痛みや苦痛を伴う事が多く何かを理解しやすいが、段階を踏んでも先が長い
理由が双方やいずれかの感情や想いだったりする動く事も出来ない空気、他人との対峙。
俺は、まだ、人が生きている間に成長をやめる事など考えられない



12月23日
■ウルルン滞在記を見た。また時々交換家族などをやっている番組を見る
日本人と外国人の交流を映像とて庶民レベルというか
ごくごく一般的なレベルで伝えている番組で、見た事あるのはこれくらいか

今もそうだったのだが、再会や別れのとき、日常生活もそうなのだけれど。
どうして彼らを見ているとこんなに何かが伝わってくる?いや、なんで伝わってくるかはわかっている
彼らだから伝わってくるのだが何で彼らだから伝わるのだろうということなのだ
テレビで取り上げられている人達はその国では特別な人たちなのだろうか
決して一般的ではない人達なんだろうか
もしくは外国人という事実が特別さを持ち、それが彼ら双方や視聴者である自分に
何か特別なものを増幅させて伝えているのか

日本人は全世界という視点から見ると、特異な民族だろうと思う
「アジア的」では決して無いんじゃないか?
アジアの人々よりよっぽど穏やかだ。悪意を持つ人間もあちらに比べると穏やかだ
悪く言えば陰湿である

あちらの人々は過激であるし感情も激しい、もしかしたら頭は良くないかもしれない
しかしやっぱり頭のよいやさしさと頭の悪いやさしさではなぜか後者の方が癒される、かな
冷静に論じればただ単に性質とそれに沿う役割の違いなだけかもしれない
だけど、だめだ。彼らの表情や仕草や、言葉や存在に魅せられてしまった(魅するの活用だったのか!)
きっと、日本人が嫌いなわけではないけれど外国の人が好きだ。会って,話したい
それはごく一部だけしか見ていないから、発生する障害とは関係ない部分のことだとも思うし

彼らの存在はまるで希望が薄皮でくるんであるように思えた
希望を皮ごしにでも見れたというその感覚が、自分に伝わった「何か」なんだと思われる
例えれば彼らはしゅうまいで日本人は肉まんだ
そんな彼らを知り、何故目を向けずにいられようか
いつか,海外に行ってみたい





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