独 り 言


1月19日
■平凡なことが頭を占める
なんだか精神的に平和になっちまった
本当に平凡な事なんだが、今頭を占めているのはもう少しで
みんなと離れ離れになるって言う事、みんなは今はセンター試験で頑張ってるだろう

なんだか自分は妙に感傷的で、んー、感受性が強いのかな。だけど、それでいて大抵の事には動じない
感情なんか乱さない。むかつくのと感情を乱すのは違う。むかつく事がないわけじゃない
けど少ないかも
というわけで一見矛盾してそうなことが共存してて不思議だ
とらわれにくいけどとらわれると深いという事かな

怒ることもないわけじゃない。ただ怒ってはいけないという必要性があれば確実に怒らないのはわかる

自分は理性で感情的なものを押さえている、ということになるのか。
とりあえず最近たしなむようになった酒、酒は理性を溶かしていく
感情的なものに理性がスリーパーホールドをかけている
それを酒がといていく、段々感情(押さえねばならない)が解(ほど)かれていく
んなわけで、酒の席にたったときは気をつけよう、なんて思った
普段開放してる人ほど、あんまかわんないね

感情を感情で押さえる事が、それこそまさしく自制というのだろうけど
出来たらいいな
感情で押さえるというと言葉が悪いかもな
押さえつける以前に,それが起こらないということ、そんなイメージ。
それでいて感情がないわけじゃない
感情がなければ何も起こらない,でもそれじゃつまらない。切ってみればわかる。
非常につまらないから辛くても,苦しみたくなるし悲しみたくなる
不思議だ

やばいほどつまらないことしかうかばない,そして平凡。
平凡だけど,ほのぼの出来るというわけでもない
自分の、内部に力を送るのに必死で外部にはなにもまわってこないのかも

■吉本ばななのN・Pと、アムリタ(上)を読んだ
じつはつまらないだろうと、非常に毛嫌いしていた
アムリタも以前読んだときには、いつだったかな。全部読まずに止めてしまった
だけど,この人は表現が素晴らしいね、感覚的なものも素晴らしいと思う
N・Pの方を読んだ時点ではなんだか不完全でいて研ぎ澄まされてる印象を受けたんだけど
そうでもないかな
秋が牙をとぎすまして待っている、だったけかな。それとかいろいろあったけど忘れてしまった
いつもいつも、いい表現は自分の中に残したいので覚えていようとするんだけど
大抵忘れてしまう
自分がこの独り言で書くようなことで、同じように思っている事を小説内で見かけたのは
吉本ばななと田口ランディだけだ、あと村上春樹で少し。
意識の共有がそこでなされたような気がして、少しビックリする。

いずれにせよ、書物は多分今の自分の力にはなってくれない
愛に飢えるという形容は幾度か見かけた事があるような気がするが
まさか、飢え死にはしないだろうな




1月26日
■だれにともなく 書いてみよう

インターネットをしていると、いろいろ書くことがあるよね
インターネットは文字でのコミュニケーションを底辺として成り立ってるから

こう、ノッテル時なんか、ぽんぽん単語が頭に浮かんで
面白いほどすいすい書けてしまう、なんて事がある
だけどそんな量だけ多い文章は決して良い文章じゃない
文の贅肉は殺ぎ落とさないと,伝わりやすい文章にはならない
言いたい事だけ伝えるためには1,2行ですんだのに
なんで10行以上も書いてしまったんだろう、なんてならないようにね

贅肉がつかないようになったら
そこでもうその文章は、そして文体はあなたの色を持つようになる
よく、文章がうまいなんて言われちゃう人は
さらにそこから効率的に肉付けをする事が出来るかもしれない

まずは贅肉を殺ぎ落とす事から

■この独り言のは
日記などのように、日々あった出来事をつづり
その出来事に関して薀蓄をのべる、なんて事ができない
安定してしまった最近の俺は
もしかしたらここに何かを綴るなんて事は
もう出来ないのかも
何か起これと祈るべきだろうか、それとも文章を作るべきだろうか



1月31日
■ああああ、久しぶりに滅入った
ネットでの事なんかで
むかつく事はもう無いだろうと思ってたけど,滅入りはするンだなぁ・・・・・・・・
やっぱりこっちから何か働きかけると、それ相応のリスクを
つまり何か得ようとしたらリスクを背負わないと行けないンだなぁと改めて感じさせてくれた
リスクを背負ってもなにも得られない事もあるわけで
守りに入ってちゃあこのむなしい虚無感のようなものも得られないンだなぁって思ったら
そこそこ愛しく思えてきて良かったが
どうも自分はネット上だと、多人数と同時によろしくやるのが得意でないらしい

■国語が出来る人ってのは
基本的に頭が良いと思って良い
国語ってのは、日常の生活がそのままで勉強になるわけで
何かについて考えたり、それだけで自分を磨くことになるわけで
同じだけ普通の日常生活を送っていても個人に差が出る
多分、国語だけ出来るってひとは勉強が嫌いなだけ・・・・だろう

■文章が張り詰めて無くて だらしねぇなァとか思ったが
ごろごろしていた金塊を拾い尽くして
今は砂金を掬い取るように川底を梳いている状態だと思って
我慢するか・・・・・・・
このページよりちょっと前のほうが絶対できが良ろしかったなー



2月12日
■ちょっと考えてみた。どうして新たに書けないのか
それは新たに疑問が沸かないからだ

解決しようとする、乗り越えようとすること。その過程で何かが見つかる
それはご褒美みたいなもの。
疑問というものは、現状改善という人間の基本的な心理を刺激する
逆にいえば現状を改善する必要が無ければ、疑問などは生じはしない

そういう意味で、ほとんどのことに自分は今満足してる
きっと好きな人のせいだ。他の事など些細な、些細な事になってしまって
今の俺を占めてしまう
そういうように、生まれてくる疑問ほとんどがそれに関する事で
だからそれについてのことならいくらでも書けるのかもしれない

でも、時間が過ぎて今の俺を占めていくものが変化していけば何か変わる
そして多分新たな進展は無く、又絶対に昔のようになる
光がどこかへいけば、そこは又くらやみになる
闇があるからこそ光があるんだから、・・・ってどっかで聞いたことあるな
まぁいい。埋まる事の無い穴というものはあるんだ

なんにしても、自分の大きな闇を照らす事の出来る、光に今は恵まれているから
だから以前のように照らさなければいけない場所ばかりにはならないんだろう

コップのそとにあふれ出るにはコップをいっぱいにしてから出ないと
難しい

■極論というものは、他人に示したい属性を
事実を極大化させることによって目立たせる、一種の技術だ
しかしあまり考えもせず極大化すると、それに付随する第二、第三の属性をも同時に極大化し
その示したい属性に関する事実を説明するに当たって
適当でないものになってしまう事がある
使用者は、それをも見極めないといけない

■失ったときの喪失感。時々これについて語る人がいる
そういう人は幸せだと思う
本当に大きな物は失った事が無いのだと。
もちろんその大きなものというのは
個人の、思い込みによるものが大きいから絶対的な判断の対象には決してならない

小指を失ったことによる痛みを語るとかなんとか。視野が狭い、だから幸せだと思う
もしも小指以外のものすべてを一挙に失ったときに、痛みなど感じると思うのか?
幸せな人は大きな物を失うという本質を、知ってはいない
しかし、これについても実感などはどうでも良いものだが



5月27日
■趣味だとかなんだとか、こだわりすぎるとこだわってない人間にとってはは基本的に何でもうざいのよ
そして逆にこだわった人間は突き放して見たくなる。なぜならば他人の知らない領域ってのはステイタスだからね。
なんでステイタスかつったら自分がこだわってるからさ。

趣味ってのは自慢できることなんだよね。
論理としての理解は一般的かどうかわからないが、意識化レベルでは人間はそのことに気付いている
だからこそ、それを他人に顕示するために趣味は語るものでもあり
(それも、当たり前、常識、変ではないなどのオブラートにつつまれているために他人との衝突の危険性が少ない)
一般に語り合われている
隠避してることを暗黙の了解としてるからいやみっぽく感じるけどな
逆に自分から趣味を語ることが理性のあるうちはしにくいって人いませんか

■人間関係で一番重要なのは距離。結婚する相手とだって完全に密着するわけには行かない
結婚する相手ですらそうなのだから友達などとは、当然生きてる間にとる距離、距離のとり方学んでいくと思う
ここでも適用してしまうけど、無関心は最大の武器なんだね
ここら辺はもう人格が介入してきてしまうから、心理学の分野だろうなぁ
ちなみに自分は深く狭く、深すぎて失敗することもしばしば。

■自分がいろいろ書いてることは完成された論理だそうだ、基本的に
完成された論理を理解することと、完成された論理を作り出すことの違い。あー、いちいち言うのもめんどくさい
やっぱみんな普通はわかるよな。

自分は問題を解決することにより、つまりなぞを解くことにより、すべての要素を論理分解することにより
このように筋のとおった論理を完成させることが出来る。
完璧過ぎるからこそ悲しい、正論の特徴はみんな知ってるかな?

================以下駄文======================

■ほかのことには無頓着なのにそこだけは譲れないというところがやっぱり誰にでもあるもので
人によって個性が出て結構面白い
友達なんかは、病は気からというところにこだわっていたし
お互いバスケットをやっていたのでそこのところは受け流せずに、どちらも引かないところもあった
どんなに硬くたってたたけるってことは、それは弱点ということだから
変なこだわりなんて持たないほうが合理的なのかもしれないけど
面白い

だらだら書くんだったらいくらでもかけるんです
小学生のころの自分の特色は何か書けといわれたらともかく長いこと
これらははっきり言って駄文です、本当の
いつものは駄文ではないと思ってます
これは駄文なんで暇で暇でしょうがないとき以外は読まないほうが良いです
いつものはちょっと読んどく価値はあるかもね
駄文を書きたくないゆえに毎日こっちは更新できないわけで

そうだ、クラスメートに見せる可能性もあるからHPのプロフは書き直しとかないとな・・・
さすがにあのまま出すのはいやです
昔書いた文は気合入れて書いた文じゃない限り今見るとがきっぽいー





6月27日
■ぴったり1ヶ月・・・、もうだんだんばかげたことも書けなくなってしまいました
リアルの知り合いの方々にも教え出したのでぶっちゃけることも出来なくなってきたー
連邦で発散してるのでそっちもまぁみてみて
やっぱり書いた言葉が即座に認められるのは気持ち良い
即座に反駁が来るのも凄く助かるし、しかし最近はそれもあんまないな
認められすぎたのが呆れられちゃったのか・・・

■学校だけど、だんだんと打ち解けてきた。やっぱ皆若いんだもの、楽しい方が良いよね
他をなおざりにせねばならぬほど、勉強が大変じゃないのが嬉しいような悲しいような
自分が優秀過ぎるということで無く、どうも普通人にとってたるいようだ・・・、授業。

■自分はバイト経験めちゃくちゃ少ないんだけど、構内の掃除のバイト始めてみました
いちんち2時間、授業終了時から。だからそんなに稼げないのよね。
土日なんかもバイト探そうかなぁと思うけども、どうするんだろう自分
未来の自分の判断が気になる・・・
バイトを始めて思ったことはやっぱ自分は先輩に餓えてる、あと先輩との付き合い方がへたくそ
先輩が居なかったから欲しいんだし、居なかったからなれてないんだしといった感じ
中学は自分のほうがえばってたし、高校は1年だけサボって2年時から入ったから隙間があったし
どうも、理不尽さを排除している自分は、その裏で納得のいく理不尽さに餓えているようだ
上には完全に従うタイプなので、ただ嫌いな先輩や知らない年上には容赦しない感じ
同じように、女の子や知り合いには以上に優しいけど、知らない奴と嫌いな奴には以上に冷たい俺

■誰しも自己分析なんかはするんじゃないかと思うんだが、自分を知り尽くしたいと思う人は少ないのかな

■駄目だ、ネタは資料としていっぱいたまってるのに、かけん。コマタ
別のHP作ろうか・・・




7月9日
気付いた。俺は俺が一番好きな人間になりつつある、多分なろうとしてる。

気付いた。既に遅すぎる。自分は強すぎる、多分自分で死ねないと思う。

気付いた。悪魔や死神が居ないからこそ、この世は地獄になりうるって。

つまり、苦しむ。つまり、苦しむ。つまり、苦しむ。

いやぁ、病的だ。誰か駆除したほうがいいよ、俺を。まともすぎるからこの世の中に合わないんだよ。

誰だろう、俺を苦しませつつ殺さずに、生かす奴は。

俺は傾く三角形。傾いて、傾いていつ線になれるのか。
いつ三角形が崩壊するのか。

みんな滅ぶために生きているはずなのに、俺はもっと滅ぶために生きている気がする。

しかし同じ過ちは繰り返さんぞ、もう一時の影響でほとんど全ての物を捨てることはない。
どうせ元を、命を捨てきれないのに。

なんでこんなに重いんだろう、だけど裸になっても重いだろうな。



7月11日
■やばかった。
なんだか刺される為に鎧を脱いで体をさらけ出してるように、危うい
周りに人間がいなくて、一人ぼっちだったのもあるかな
自分に優しい人間ばっかりでうんざり

■僕らの自由意志が
物理学そして量子力学、つまり確率に依存しているというパラドックス

人類は以前物理学によって、決められているという事実に困惑し
現在量子力学によって、決められていないという事実に困惑する事になる

なんてね〜。

保存しておこっと

■身近だと勘違いしていた死は
全て結局他人のもので
自分の死という物は、やはり特別なものであった
人は自分の死を見つめなおすことで、やっと気付くのだ
それを何回繰り返すのかは判らない

■物語にすらなれないような、醜いお話もたっぷりと有る
本物の理不尽

■胃に何か物をいれるだけで吐きそうだ

■憎むということは辛い




7月15日
久しぶりに、やっと
鼻の奥に涙の匂いがのこるくらい泣けた
それと同時に、俺はもっと俺の事がわかる言葉を
俺の口から聞くことが出来た
俺が判ってなかったのに俺から知ることが出来た
すっきりした

号泣できる人は、いったいどんな人なんだろうって思った



7月17日
■自分の意識の、強大さと脆さが怖い



8月5日
■時々"読む事"と反対のことをしたくなる
書くって言葉は適切でない
そんな整然とした行為なんかでは欲求は埋まらない
ただ言葉を垂れ流したくなる、とめどなく
これはただ誰かにかまってもらいたいだけなのかも
人に飢えてるのか、でもきっと贅沢な飢えだ
ものすごく贅沢な

■高校卒業にもなると、他人の人生とのずれ幅が
だんだんと大きくなってくる
子供のときはほとんど一緒の線上だったのに
自分で埋めようとしても、もう埋まりにくいくらいに
二人で埋めようとしてすらも、埋まりにくいくらいに
子供のころなんかには考えられなかった、ずれ
でも、そのずれ幅が、その人をとってもいとおしくさせる
そのずれ幅でとっても切なくなる
たいして仲良くも無かったのに、でもずれによっていろいろ感じてるってことは
その人のよさを自分が気付いてるって事だね
そう考えるとクラス替えは大きなずれのはじまり
今からでも、絡み合えるくらい、他人の線と関わりあいたい

■何か、もっと大きな謎は無いのか
わからない、ということさえわからないような
すべてが整然としすぎる



8月8日
■さぁ、すべてが整然としすぎることの付けをがんばって払わないといけなくなった
俺という人間は"好きになったら負け"を地でゆく。
負ける、という言葉だけなら印象は悪くないが、実際は最悪なものだ。
勝手に期待し、勝手に裏切られ、勝手に傷つく。
自分から相手を傷つけるつもりなんて毛頭無くとも、この仕組みが続いていく限り相手を傷つけてしまう
相手を傷つける選択をしなかったら俺がつぶれる
言葉どおり相手に勝てない、つまり弱くとも。
そして勝手に試し、勝手に失敗して、勝手に判断する。
もちろんこれは極端な話だけれど。
付け、とはこのことをはっきりと理解しすぎるがために俺は二択を迫られることである。
すなわちわかっていながら失敗する、まで行くか
好きであることをやめるか。
さっきも行ったとおり、これは極端な話である。
しかしもし対象が、俺が人間として一番好きな人間、に対してだったら?
けして、極に近くないとは言い切れない。

もちろんわかっている。上の文章だけ読まれたら俺の怠慢だとも言われかねない
"勝手に"の部分を我慢すれいいだけだ、ただそれだけだ
けしてそれは他人に、相手に変に映る物ではないのだろうけれどね。
むしろ映りすらしないものかもしれない
負がないのなら、正も無い。俺が日ごろ言っている、論理的なフィルターも不完全なもので
悲しいことを消すのなら、嬉しいことも消さないといけない。
我慢できるほどの、どうでもいい人間に対してだったら無い道筋について愚痴ったりはしない
そう、これは愚痴だな。やはりどうもならん。
好きでなくなるのに一番いい方法は何だろう。また考えてみよう



8月10日
■自分が目指す人間像はルパン三世だと前も書いた気がする
これは、俺が俺らしく居るために結構重要だったりする
まぁなんでかっていうと俺の言葉は重いから。
というか、ある種の言いにくいようなことも平気で言っちまうからである

言葉の重みの要素でもある説得力、これはどうやって生まれるんだろうか
これは相手が感じるものであるから相手を中心において考えてもらえばいい
説得力というベクトルが向かう目的地は、"相手の納得"だと考えてもらえばいい
相手が納得する、または納得せざるを得ない状況にさせる力が説得力なのだ
なんか曖昧な印象は拭いきれないが
つまりその説得力が強引であれば強引であるほど、相手には重い言葉となる
むしろ相手がすでに納得しているようなことを補強する意味での説得力などには重さなんか無い
ということは相手の意思の反抗を覆す力こそが
相手にそのまま重さとして伝わると書いたほうがよろしいかな

もちろん、納得しなきゃ意味が無いんだから
力だけで道理が合ってない論理しか扱えないのなら相手が納得してくれるわけがない
そういうわけじゃあない
ただ、正しいことを正しく伝えて間違ったことを正すだけだ
これは簡単だけど、難しいことであったりする

一番の理由は、やるときはやる、というスタイルが大好きであこがれていたりするから
ルパン三世が理想なんだけど
そこに隠れていた理由は、つまり俺を軽視してほしいということであったりするのだ
正論を言ってしまうのが俺だからである
それによって言葉のみから生まれるショックを受け流してほしい
どんな重いことをまじめに言っても茶化していただけると助かる
わかる人にならその場は茶化して軽く受け止めても後から自発的にそれについて考えるだろうし
もちろん、相手がショックに耐えられそうでかつ、メリットがかみ合えば
茶化せないような表情と雰囲気を持って伝える場合もあるけどね

だから俺の言葉はお茶らけた風にとらえてくれればいい
後からじわじわと自分で考えてくれればいい




8月16日
■自分のことを書くとどうも曖昧になる
常に変わりつづけているものについて書くのだから当たり前かな

■愛ゆえに喜び、人は傷つく
完璧な愛であればあるほど、重荷である
これは人間関係の基本的な原理だったりする
そう愛が強ければ強いほど、負担になるのだ
強い愛は人の心を傷つける
いや、むしろ愛自体が人間の心にとって負担である

こんな基本的な原理があるにもかかわらず
愛によって傷つけられたという人で町があふれないのはなんでなのか
それは愛の力ゆえである

読み間違えればただの電波な文章であるが
相手の愛の負担を自分の愛によって、耐えるどころか
相手の愛は、自分の愛にとって最上の喜びの要素なのである
受け取る愛は与える愛があるからこそ美しい
つまり相手に自分にとっての愛がないのに、自分が愛を相手に振りまくことは
罵詈雑言で相手を汚すのと同義ということ

欠けた認識を持つ人間ばかりだけれど
それはたかが人間関係の一原理であってもあまりに悲しいからなのだろうか
もちろん、与える愛と受け取る愛の力関係も大いにかかわってくるだろう
毒をもって愉楽をうけるは人間の悲しすぎるさがだったりする

■外部に対する影響の平均化
これをすることで、その平均化の意味自体が消えてなくなる
またこれはバランスというものの考え方にも大きくかかわってくる
個性のあるものによって一つを形作づくったあとに見るとその一つの中の要素は平均化される
まぁ数学的に考えると簡単なことだ
10という数字、1,5,2,2と分けられていたものを集めて10にしたのだが
これを10にした後で考えると"数字"が10の分集まってできたものという認識に変わる

これは数字でみるとまぁ当然なものだけれど
人間にも世界にも何にだって当てはまるところが面白い

バランスが取れていないものは、バランスが取れていて
それによって集まったものも、バランスが取れているのに取れていないというパラドックスじみた状況が発生する
そして、要は視点の問題だということに気付く



8月21日
■10時間寝ても目覚めははっきりしないときがあるくせに
5時間しか寝てないのに妙にはっきり目覚める、今日みたいな朝もある
今は朝の5時で、外は小鳥の音が五月蝿いなんてもんじゃない

バスケ部で集まったんだが、素晴らし過ぎ
ただの、それも普通程度かそれ以下の幸福だと思うんだけど
俺が大事だと思ったものはすぐ壊れるから。
愛の過多っぽい
それだけ居心地の良すぎるものとは距離を置く傾向にある
人間関係がそうだからか、一番いいものはあえて常用しないってことが色んなことに当てはまる
期待をかけられるのが嫌いだから、期待をかけることも嫌いらしい
いや、期待をかけて裏切られるのが嫌いだから、期待をかけられることも嫌なのかな
ともかく、今までに俺にできた友人たちというものは
俺の人生の中で妙にはっきりした財産で
特にバスケ部の皆なんか相性なんか超越してて、全員大好きだし
そう、そうだ。珍しくはっきりした財産だ
とりあえずなんだか当たり前のことなんだけど、いちいち書くってことは俺にとっては当たり前じゃないらしい

【本当の意味で傷ついて平気な人間はいないはずだ、きっと】
と霧間誠一もいっているが、確かにそのとおり
ブギーポップに出てくる、わざと傷物にして傷を目立たせなくする、も物凄くそれが当然であると俺も思う
どうも俺は、それをして、さらに傷が発生しにくい仕組み自体を自分に適用しているっぽい
俺という存在が俺にとって高度すぎてよくわかんないけどな

もうひとつ、好きな部分
・お前は他人を幸せに出来ても、お前だけの幸せというものを掴めぬのではないか...
 そんな気がしてならぬ。それが世界に匹敵する才能を持ってしまった、
 お前の宿命なのではないかと



8月28日
■誠実さも優しさも愛も、自分を滅ぼすだけだ
言葉でも、意識としてもわかっていたつもりだったのに
装置は出来あがっていたのだけど、今日はじめてスイッチを入れたように
今までは機能していなかったようだ

他人へ、せめて理不尽の無い対応をしようとしたり
わざわざ感情を押さえてあげたり、自分がされたくないことをしないようにしたり
そんなことは全部他人を助けるだけだ
結局その、他人を助けるということ自体は自分に良い影響を及ぼさない
その正しく善い行為は、自分を助ける行為を誘発するだけで
直接自分を助ける行為にはならない

誘発であり見返りは確実でない
さらに、少し前に書いたように見かえりを頂くどころかその行為自体を嫌がられる事すらある

それと大事な物なんて作らない方が良い、どうせすぐ無くなる
人間はわざとでなくても人を裏切れるし、酷いことが出来る
これは幸せが存在するためには絶対に必要な事であり、悲劇を生み出す原因ともなる
まぁどう理屈づけても、罵倒したり汚したくなる対象というものは俺にとってそういうものであることは
残念ながら変わらない

などと思ってしまう俺はただ恵まれてないだけだろうか
こんな事書いていても、俺一人が世の中の負のバランスを取るために場所取りをするから
その分誰かが幸せになって欲しいなどとも思ったりする

しかし、俺の予想では俺のバランスは正のほうに取れてしまっている気がする
喪失感や裏切りの絶望、巨大な理不尽さなどそんなものでは
どうも俺というバランスはつりあって無い気がする
もっと物凄く重大で酷いものが、来そうな気がする
そうしたらもっと



8月21日
■なんだかあきらめがよくなった
どうでもよくなかったものを、どうでも良いと思えるまでの時間が短くなった
自己暗示です



9月6日
■子供が残酷な事をしてしまうのは
子供っぽい人がついひどい選択をしてしまうのは
痛みを知らないから

他人に介入されて流れの結末を決定され
相手自身に自分で言うことなく終わってしまった恋をしたり

信頼の芽生えていた関係を急にぷっつり切って、耳を閉じて口も閉ざしたり

そんな事が起きた人は他人がそんな辛さを味合わないように努力するだろうなぁ

痛みを与えられた側は、いつか同じ目にあってあなたも気付きなさい
と、毒づく事しか出来ない

■自分が理性的な物心がついたのは中学のときだった
ともかくこころの98%くらいが吹っ飛んだ
その後、世の中に怒るべき事なんて無い、という言葉を思ったのか読んだのか聞いたのか
今はもう思い出せない
ただそれをきっかけにして、感情と論理の区別を考えるようになった

人間の意識を構成しているその要素達は
互いに、自由になった。相手からの束縛は無くなった
むしろ時には自由に出会えるようになった、関係はより良いものになった

一番もとのねじがスムーズに動き出したら、後はもう全て上手く動き出す
何もかもが整然としていった、さながら工場のように

蛇足だが、わかりきってる事なんてつまらない
もう理解し終えた足し算を延々とする事なんて耐えられない






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