独 り 言
独 り 言
1月4日
■今年も、謙虚に行きたいと思います
なんだか良く寝たら心の元気も回復してきたようで
人間の生きる力ってすごいな、と思った
人間の、かはようわからんけど
どうも眠ったり時間が過ぎると普通に戻っていくね
で早速『アイアムサム』を借りてきたんだけど
これはかなりきた
あと年末にみた『アメリ』は今まで見た映画の中で5本の指にはいるくらい好き
好きな映画を5本に選ぶ事は出来ないんだけど、5本の指にはいるほどというニュアンスをわかってください
後、初夢が思い出せない。二つ見て後のほうは印象的な部分だけ覚えてるのに
なんか、中学の頃の同級生の女の子とかでて来たりした
あんまりはっきりした意味は無い夢だったんだけど
ともかく、夢を見る人は頭の良い人らしいので
どんどん夢を見ていく1年にします
■色んな物を誉める事は好きなんだけど
その逆は嫌いだったりする
だから予定調和的な雰囲気っつーか、容認されるような流れでしか
貶さない
どうも貶されているのを見るのは苦手だ
そもそも表立って貶す必要なんて無いとか考えちゃうし
でも、どうも"色々な物を貶す"じゃちゃんとしたグループ分けで無い気がするな
自分の好きなものを目立たせたいなら、それを誉めよう
周りを貶すのはやめよう
好きなもの主張するのに消去法じゃつまんない
1月24日
■ここ数年、なにかに対してむかついた覚えがない
というくらい、自分はむかつきにくい
感情自体が嫌悪のような物に向かって、愉快でない気分になるときはある
例えば、特にわけもないのにいらいらするとか
そういう時が周期的に誰にでもあると思うけど、そういうようなもので
外的要因から怒りを誘発させられたことがほとんどない
自分の周りのものに攻撃を加えられたり、被害を与えたりすると多分感情を解放すると思うけれど、
これは徹底に損害を敵に与える為のエネルギーを
作り出すための擬似的な物だと思うし
最近、村上龍の希望の国のエクソダスを読んだのだけれど
非常に面白かった
自分としては何が面白かったかと言うと、登場人物の中学生達だ
とにかく印象としては恐ろしい
同じ人種とは思えないほど、価値観やそれらの物が"人間らしくない"
ある種、機械のような印象を受ける
新人類と言う言葉を作中でも見かけたが、それは以前使われた新人類と言う言葉よりも
数段リアリティがあった
人間は、合理性、効率性を感情で自ら阻害すると言う矛盾を抱えている
その阻害を彼らは持っていない、したがって優秀だ
彼らはそのように優秀であった
自分は、自分が彼らのような人間に属すると思っている
ただし自分は彼らを好ましく思わないし、決定的な違いがある
彼らは欠けているが、自分は押さえている
上で書いたように、感情の抵抗をあまりにも感じないので
押さえている感じが自分自身しないが
希望の国のエクソダスでは、彼らのそのような存在の仕方を
美化してもいないし、貶してもいない
ただ、存在するから存在する、みたいな理由のなさを感じたわけで
村上龍自身はどう思っているのやら、などと思った
なんでこんな事をかくかと言うと、自分自身が人間として欠けた存在
ではないと思いたかったわけです
まぁ、でもこんな事書かずとも実はネットゲーなどしてうまくいかないとむかつくので
心配する必要はなかったりする、ビバ人間!
2chの博之なんかは、現実で、欠けているからこそ優秀な人間の一人だろう
3月25日
■期待によって得られる幸せって
全て期待によって壊されてしまうんだろうか
あいつに期待して、あいつに壊されるとか
期待なんてしなきゃ良いのに、それがなかなかむずかしい
大きな期待ほど痛くて
でも大きな期待ほど、期待しにくくなるって方程式がそのまま成り立たない
大きな期待なのかどうか俺達は確実に判別すら出来ない
んじゃ、期待によって生じたダメージを
癒す代替を用意しないといけないなんておもって
なにかを信じると、そこにはもう期待が背負われている
期待なんて奴を、メインに持ってきてあげちゃうから
変な話になるんだろうなきっと
幸せにも不幸せにも、期待ってやつは元からふくまれてんのかな
そう考えれば良いのかな
5月5日
■色々書きたいことがあって、書いてるうちに忘れそうだ
GOを読んでるんだけど、主人公とその仲間たちの強い絆が羨ましい
繋がりによって得られる幸せだとか、満足感そのものについて羨ましいって言ってるわけじゃないと思う
そういうものは不安定だと思うし。そういうものに比べて、絆は安定しているに違いない。
信頼が昇華すると絆になるんだろうか。
いったい何が絆を形作るんだろう。恋人だとか、親子だとかだったら
まだなんとなく作り方を知っているような気がする
友達とか、色々絆の種類もあるけど
自分が対象としているものはなんて言うのが適切なのかわからない。
絆って表現するしかない。
その人にはっきりと不満を言えるとか、
価値観や感情的な物(両方ともを一気に形容する言葉が思いつかなくていつも困る)のような
ただぶつけあっても不毛なだけだって、悟ってる人も多い事柄をぶつけ合いたいと思えるとか
そんな、絆を形作るって自分が考えている要素を挙げてけばもっと見えてくるんだろうか
もちろん見えるだけ
こう色々書くと、今の俺の持っているものに対して失礼な気もする
自分が同じような物を持っていても、他人が持っているものはやっぱり良く見えるとかそういうもんかもしれない。
ただ、彼らは皆理不尽な目にあって、不安定で苦しんでるからこそ
お互いをつなぎ止めて頑張ってるような気がする。しっかりとつなぎ止めてるような気がする。
だからこそ絆は強い物、"強い絆"になっている、と。
多分、絆自体を目的としている様な俺は、その時点で間違ってるんだろう
6月9日
■ええと、上のはもう良いや
個人的に19歳の1年は厄年なのかって思うくらい、悪いことが多い
女性の厄年だっけかな。多いって言うか悪い事しか起きてない
先日の水漏れの件で、大家から55万円請求されて保険でどれだけでてくれるか心配だし
バイト先では仲の良さで上から順番に1番2番の二人が辞めるらしいし
就職活動はうまくいってないし
母の下腹部から何かみつかって今再検査中らしい、腫瘍かもしれない
恋に関しても、失敗やそういうのばかりで、すっきりと振られたことは無いし
1回や2回でなく失敗している
クラスに関しても良い環境とは言えないどころか
いまだに一人でいる人が3〜5人ほどいる状況だったりする
PCも壊れてHD交換したけど、うまくデータを守れなくて、どうでも良いものではあるけど
色々消えてしまった
多分思い起こせばもっと色々ある、食中毒で死にそうになったりとか
そして現在、保険の交渉と、就職活動と、友人との別れのことが頭の中にあるんだけども
いったい何が自分にとって一番大事なことなのかわからない
ただ、一番自分の頭を占めているのは別れだっていうことで、色々不安だ
6月8日に、まるで定められていたかのように、岩波の今日の名言に夏目漱石の文章が載った
>離れればいくら親しくってもそれきりになる代わりに、いっしょにいさえすれば
>たとい敵(かたき)同志でもどうにかこうにかなるものだ。
>つまりそれが人間なんだろう。 夏目漱石『道草』@今日の名言
ドラマチックだ。今回の件ほど別れという物を実感した別れは初めてかもしれない
だからこそ、ドラマチストな俺は反応してしまった
ただ、余り実際的なものでなくて、形式的なものだったりする
此方から連絡をとろうと思えばいくらでも取れる程度のものであって
ただ、バイトを辞めてしまうだけなのだ
しかしそんなちっぽけなきっかけによって、いかに大切な出会いだったかというものに気づいた
辞める子は片方男で片方女の子だけど、男性としてとか、女性としてとかでなくて
人を好きになるって事は素晴らしいなと
で、そんなことで悩めてる俺は結構幸せなのかもしれない
多かろう悪かろうじゃ無いけど、俺は深く狭い人間関係を持つほうなので
一つ一つの出会いが重い
別れというものを実感したと上で書いたけど、離れたくないとこんなに思ったのは珍しい
人として惚れるような人間にもっと出会いたい
人間が基本的に嫌いだからこそ優しく出来る俺は
そういうような例外をもって矛盾を調和させているのかもしれない
こう何も考えずに文章を書くと、わかりにくくなる
特に俺の仲で定義されていることを説明する場合にだ
なぜかというと、文章を形作る要素を大まかな形で頭に収めているからだと思う
常に張り巡らしている論理が膨大な量になるために、そうしたほうが連結させて流れを作るのに都合が良い。
ただ、人に説明する際にはしっかりと翻訳しないといけない
夜遅いのと眠いのがあるけども、推敲しないととても読ませられない
が、推敲したら俺の色が消えちまうから、とりあえずこれは推敲せずに
置いておこう
6月9日
■もいっこかいておこう
感情っていうのは矛盾に対しての耐衝材として存在している
矛盾の重みを感情が支えている
いいかえれば感情があるおかげで、矛盾が存在できる
矛盾があるおかげで楽しかったり苦しんだりする
良いものも悪いものも支えてる
今日TVで武田哲也が、"幸せは無い"といってたが
まったく持ってそのとおり。幸せが無いなんていえるから
幸せが有るとも言えるようになる
存在してて良かったんだかわるかったんだか
結局考えが大元の方へ近づくほどに
完全な矛盾に近づく
6月12日
■どうも自分を、昔と比較してしまう
空腹でいて雨に打たれて、体温を急速に失っていくように
自分の中で自信が失われていくように感じる
"永遠も半ばを過ぎて"という、中嶋らもの著書の題名がある
題名しか知らないがなんかいい題名だよね
自分の中の自信は無限大だった
それが急速に失われていく、尽きるのか尽きないのか、それはいつなのか
失っているような感覚だけが続く
少し減った無限大
あー、昔よりも自分は傷つくのが怖くなっているんじゃないかって感じる
何か無駄な重みを自分の行動に感じて、いろんな理由をつけて抑制してる
逃げたいのに、背中に背負った重い札束を捨てることが出来ない愚か者のように。
自分を非難してしまう
反省は人に見せる為のもんじゃないし
自信と反省は仲良く共存する、それと謙虚さも
だからやっぱり、自分を信じてゆくしかない
6月25日
ここはこれでOK、7月14日
■食人鬼は俺でした。
■論理的な言葉と感情的な言葉の区別くらいはつけよう
最低ライン
■意見を投げつけられる事に飢えているかもしれない。
干渉が少なすぎる。緩衝も。
好ましくないものは、避けたり、粉砕したりとするつもりだけど。
自分が求めていないものを無意味に否定したくない。
しかしその部分については認めてあげることはできない。
一つのイメージがある。
熱気と冷気が混ざり合って、それでもそこにある全ては自己を基本に存在しようとするようなニュアンス。
エネルギーの流動。
"結果的"には、負けるわけにはいかない。
その最中には負けよう勝とうだなんて思っているわけではない。
そこではONLY1を確保することがNO1。
全能感とはもう出会い終えたはずだけれど。
ユニバーサリティとオリジナリティ。
共通するものを使って、特有のものを証明したり、伝える。
俺は、基本的に共通するものに言葉を使う。
興味のあるものや人の特有さと、自分の特有さを共鳴させようと
俺は言葉を使って繋げてみる。案外複雑なコラボレーションである。
しかし理解というものはひどいもので
ユニバーサリティにおいて、オリジナリティにおいて
それぞれ格差があるとその部分で理解が成立してくれない。
語力に属する能力不足、感性的能力不足、意識の未熟さ
あるいは両方か。もしくは理解が成立しないことが正しい。
俺は短気だから、待ってなどいられない、直接繋げたい。
決して言葉遊びではないのだけれど
尋常な量では、抽象的にならざるを得ない
地球を宇宙から写真で取ると地球は青くなる。人っ子一人見えない。
しかし視点を変更して人を見ようとすれば青さは見えない。
等寸大で表現するしかない
長い。一言で言えば混沌が存在する必然性、必要性。
6月25日
■事実を伝えようと急くばかりに、自分の言葉が消えていた。
これでは本末転倒ではないか。
俺は、俺についての学問を世に開こうと思っているわけではなかった。
一応の、流動的な日記という形式である以上
体系的にまとめることが、その存在意義でもある学問と相容れるわけがない。
流動的である以上、知らせるためには繰り返さねばならない
それは本意ではない。いずれやるかもしれないが。
理解されたいという欲は誰にでもある。
自分の主張が理解されたということは自分が認められたということであるから。
論理的に正しいのかどうかではない
人に認められると言うこと自体を人間は欲する傾向にある。
完璧に近い、人間に対しての高い理想を持った上で
多くの人間に期待してしまうのは馬鹿げている。
どうも"理解"という行為には深い罪があるようだ。
通常どおりに戻るとしよう。
7月14日
■部活に勤しんでいたときもそうだが
現実的な問題に多くの力を割いているときは、物を書かなくなる
まぁ、結局現実に対して影響力を持たない言葉を書いてみたって
言葉遊びといわれても仕方がない
清涼院流水の、コズミックに
>人間の内面を抉る漱石のするどい洞察が、たまらなく心地よかったからだ。
>漱石文学に触れるとき、彼女は、自分が人間を客観的に眺める存在になり、
>遥かな高みから小説を通して世界を見下ろしているような気分になることがあった。
>体が火照りを帯びることすらあった。
というくだりがあった。
これをよんで、俺は俺のファンなのだと知った。
この文章以上なのでね。
俺という概念は二つあることになる。
単に俺という概念、そして、俺がファンである対象である俺。
ファン心理を持っているものと持たれているものが同一であるという矛盾。
しかしナルシストなわけではないし、盲信しているわけでもない。期待と信頼は成果によって保たれる。
むしろ俺は客観性以外を信用しない。
単純に新鮮な事実だったので、びっくりした。
教えてくれた、この文章に敬意を払いたい。
ファンがお気に入りの作家を伝えるように,俺は俺のことを伝えるのだ。
きっと。
7月22日
■久々に結構酔っています
ここに書く文章が、俺を学問する文章で無いということは前日触れましたが
俺を通じてなにかを学問するような文章が、多いことは確かです
なぜか、それは疑問を俺が持つとき、それを解いた自分が学んでいるからです。
俺という人間は結して創造性に富んではいません。
1次創作という事を真の意味で考えれば人間には結してそれは出来ないわけですが。
では、俺は何を持って創作をするのか、それは洞察です。
したがって、新たな疑問が生まれなければ、新たな創造は起こりません。
しかし俺が成長しても、他の人間は、しいて言えば大衆は成長しないわけです。
ここで同じようなことを繰り返すことになってもそれを読んだ人間すら成長するわけではないのですが
もしかしたらそろそろこのコンテンツはまとめられることを望んでいるのかもしれません。
しかし俺はそれを許しません。
ともに成長すべき人間なんて、俺の愛する人だけで十分だ。
他の人間は信じる価値も無い。
もちろんうわべだけ、それもかなり厚いうわべでは、多くの人間を信用するでしょうけどね。
好ましい価値観も、認めるべき価値観や知性も
宝石と比べるまでも無く、輝いて見える。
それを捜し求める俺の命よりさえ、希少な存在かも知れない。
お粗末さまです。願わくば、ここに書くような疑問や発見に
これから恵まれますように。
恵まれないのなら愛をください、どこかの神様。
7月25日
■大胆は無知と卑劣の子であって、他の資格よりはるかに劣る。『ベーコン随想集』
時には無知と卑劣さを自分自身にも示すことで、それを克服する。
年をとるにしたがって、失敗することは許されなく、恥ずかしくなるんだろうか。
積み重なった自分は、守るべきものとして丁重に扱われる?
文章に対して、事柄に対して
疑問を持ったり、点で指摘するということは簡単なことだ
しかしされたほうは、その点を説明するために更に面を作り出す。
それだけが続くようなら、それは議論じゃない。
質疑応答の対象になるだけなら、対象とされた俺にとってはなんの価値も無い。
他人への返答に、別の他人が質問する。
愉快な話だが、まだ有意義だったら良い。
本質的に、包括的であって、協力的である議論こそ
真実を得るためには良いことだと思う。
日本人は基本的に議論が出来ないんじゃないのか。
例えばここで、議論について包括的に俺に意見を言い
俺の言ってる事を変える、または否定することと
それは違うと、ごく短い根拠を持った反論をする事は
真実を得るためにどちらが有意義か。
まぁいい
7月30日
■上の文章を書いた次の日に二つの、故人(多分)が残した名言を見つけて
TOPに転載した。
偉大だと認められただけの事はあるようで、歴史が残した言葉は大きな支えになった。
事実に対しては謙虚になれるけれど
ふさわしくない?人間には謙虚になれない。
なんと形容すれば良いんだろ・・・
もちろん、最初からそういう人間をぞんざいに扱うわけじゃない。
ネットで謙虚さについて述べているところを探していたとき
謙虚さを"不完全性の自覚"といっていたところがあったけれど
自分というモデルにおいては不完全性を自覚している
それでは形としての"謙虚な自分"は作れるけれど、それだけだ
結局もっと、関係において温度差を感じさせないくらい、非情になるか
無関心を装うしかないのだろうか
またこのような問題には、やはりテキストベースのインターネットという存在が
大きな意味を持つと思う。
インターネットに触れるようになって一般的な人間は不自然なほど多くの
言葉を扱うようになった。
過去において、論じすぎて真実を見失うことなど、そこまで一般的では無かったはずだ
シチュエーションとして、日常において、その"日常"の人生にとっての範囲が。
論じすぎて真実を見失う。何故こんなことが可能なのか、と考えてみることも出来る。
それは言葉と現実との繋がりに深く関係がある。
わかりやすくいうと、意識←→言葉←→現実 ということ。
途中に言葉を挟んで現実に影響を及ぼすために
言葉の、意識に対しての影響力と、言葉の、現実に対する影響力の温度差があるわけだ
しばしば人間は、どうでもいい事に悩むし
どうでも良くないことを、平然と捉えすぎてしまう。
つまり、俺の謙虚さとはどういうものかがわからないという悩み、という問題?は
どうでもいいものだということだ。
少なくとも現時点において、どうでもいい部分にあるわけだ。
現実的には。
ここにまた、現実でも人間関係を持つ人、という要素が絡んでくると
ある意味良くなる。
人間関係においては距離が非常に重要な要素の一つとなるが
これが非常に安定した位置に収まりやすいからだ
まぁ、もう少し現実的にいこう、少しの間は
なーんか後一つ二つ書こうとしたことがあったんだけど忘れた。
思い出せるか出せないかは、思い出したときにしかわからないけれど
ものすごーくそんした気分だ。
8月7日
■冷や汗が。
何故だか漱石の坊ちゃんをよんで、小説が書きたくなった。
大元のストーリーが思いつかないから書いたこと無いってのもある
作家さんは、自分が経験してた特殊な状況を書いたり、いろんな職業やら環境のことを
取材して書いたりしてるわけだけど
そういうのは俺には出来ないな。なんかでも良い題材があったら是非書きたいな。
けど、20年生きてて思いつかないんだからこれからも思いつくことは無いかもしれない。
なぜだか、ものすごく独りになりたい
自分以外誰もいないという意味じゃなくて
干渉したりされたりがやになったのかな
パートナーすら要らない・・・
地味に痛いとか、地味に面白いとかいうけれど
地味であるということを強調するっつうのは
本質を強調するって事なのかな
よくわかってないけれど、使わせてもらうなら
地味に独りになりたい、そして地味に結構重大な状況かもしれない
別人かもしれない
誌と言う物はダイレクトに人間の心に働きかけるけど
意味なんか忘れてそういうものを追求した文章を読んだり、書きたい
自分の中ですら脈絡が無いから、やばい
とりあえず、今から本を買いに行って来ます。
後食物も買いに行ってきます。
今日は静かに過ごしたい。明日はもう帰りたい。
うわーうわー
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