独 り 言


8月20日
■北村薫のスキップを読み終えた。
作者の名前を覚えちゃうくらい良い作品だった。
静かで滑らかで、今までいろんな感動をもらった作品たちとは
ほんの少しだけ性質が違った。
ターンを書店で表紙買いしたあと、スキップを実家で買って
そのまま後に買ったスキップを今読み終えた。
ターンよりもスキップが良いと言う話を耳に挟んだこともあるけれど
スキップを読んだということで、同じ位残りのターンも楽しめそうな気がする。

本との出会いって本当に素敵だ。
出会いを重視するがゆえに書店で時間をかけてじっくり選ぶのだけれど
その作者を色眼鏡で見てしまうほどの出会いって少ないものだったりする
本があふれているからこそ、作家達に期待しすぎる。良い作家は少ない。
かと思うと、非常に多い。
まるで、世界に人が大勢いるからこそ、人間に期待しすぎてしまうように。
だから嬉しい。

スキップの主人公は"演劇部"というものとほのかな関わりがあったのだけれど
演劇部のことについて触れている作品を読むたびに
自分が、学生時代に演劇部に所属したパラレルワールドを想像してしまう
小学校2,4,6年と3回ともクラスで演劇をやる機会があって
全て、主役をやらせてもらった。演劇を見るのもやるのも好きだ。
そのパラレルワールドは凄く魅力的で、実際に俺が過ごしてきた学生生活と同じ位魅力的で
つまり、ものすごい現実感があって眩暈がする。

次の独り言に書くことは決まっていたんだけど
スキップを読んだことで日記のようになってしまって
だらしなくなってしまった。
酒でも飲も





8月22日
■書くつもりとはいえメモらないと忘れる
人間関係 感覚的 絆 矛盾が 
言葉 影響 現実へ 接点。以上

[23:45:32] 888(long sleeper):
燃え盛ってる
[23:46:43] *****:
なにがもえてんだ
[23:46:54] 888(long sleeper):
悪いものが燃え盛ってるのか
[23:46:56] 888(long sleeper):
また今日も
[23:46:59] 888(long sleeper):
変な夢見たし
[23:47:01] 888(long sleeper):
5回目
[23:47:12] 888(long sleeper):
ここ20日で5回目
[23:47:25] 888(long sleeper):
実家帰ってからだから12日くらいか
[23:47:40] 888(long sleeper):
夢ってさ
[23:47:50] 888(long sleeper):
もしかして、パラレルワールドを映してんじゃないかな
[23:47:54] 888(long sleeper):
一つの可能性を
[23:48:11] 888(long sleeper):
人間の精神はなにかと繋がってるのかもしれない、皆
[23:48:20] 888(long sleeper):
余りにも一体過ぎて
[23:48:30] 888(long sleeper):
たとえば、自分の左手の小指のつめみたいに
[23:48:41] 888(long sleeper):
一体過ぎて意識できないだけかもしれない
[23:48:45] 888(long sleeper):
その接点が





8月29日
■全てを理解してもらえるのは、物語の主人公だけ
と、もう一度再確認しておきたい。

そしてそんな極端な例じゃなくとも、人間と好意的に理解しあえる率は相当に低い
例えばクラスの中で何人と、自分をあけっぴろげて表現して、それほど親しくなれただろうか
今までの学生生活で考えてみよう。
この事実はなかなか言われないと気付かない。期待もあるのだろうけれど。
そしてそれをネット上で忘れる人間が大勢いる。

しかし大勢の人から好評価を受けるには、ネットというものは可能性がある場所だ
何故なら見せたい自分だけを、限定された状況で、それも単純に見せられるから。
そして現実にも大勢から好評価を受ける人間は、いろいろな意味で単純であることが多い。

何が言いたかったんだったかな



9月7日
■下のは下へ下へ沈ませていこう。

書くにしても
もっともっと丁寧に熟させなきゃ駄目だな。
3日だかにかいたのは目も当てられないので消した。
と思ったらUPLOADもしてなかった。よかった。

人にものを伝えるにしても、会話で伝えるのと文章で伝えるのとは違う。
その違いをはっきり理解して
気をつけなければいけないところは気をつけなければいけないなと思った。
レスポンスが無いような場所ならまだ良いんだが
投稿した文章同士で意思の疎通をするような場合に
かける労力や時間、1回の投稿で伝える情報量、その複雑さ。
会話と違って、そういうものに気をつけなければいけない。
全力で取り組んでも選択が間違ってちゃよろしくない。
どうでもいいところではいいんだけど、どうでも良くないところじゃどうでもよくないから

慎重になるべきで、実際に"慎重に行動した"というところから
何かを学ぶべき時期なのかなぁ





9月10日
■吐き出したからかもしれんが妙に疲れてる。

それに自分の今の姿勢がなんかわかったかも
自分は最近、いつからかわかんないけど、"〜さえ、〜できればいいや。"って感じだったかもしれない。
野球にたとえると、フォークさえ拾えれば、とか。
そうしたら"〜さえ"以外のものは適当になっちゃうね。

まして野球なんか例の少ないもので例えたけど
人間の生活はいろんな要素があるわけで、そういうものが全部おざなりになってたかもしれない。

実際、おざなりになってたとしたら
今までの生活と同じ感じで続けてたら、どうもうまくいかないよね。
上の""の中の具体的な単語は自分でもわかってるので
そういうのが片付くまでのんびりと、のらりくらりといこうと思う。

"フォークさえ拾えれば"と思っても、フォークさえ拾えずに。
いやもしくは、フォークなんてこないかも。
ええ、それが濃厚です。



9月14日
■とりあえずここが俺の最後のとりで。
俺は俺の傍観者であり、実態であり、裁定者であり、支配者でなくては。

理性君がなだめてもなだめても
感情ちゃんはやだーやだーと駄々をこねています。
本能さんはいつもどおり静観しているだけ。必要なときにのみ必要なことを言う人ですから。
でも感情ちゃんのあまりの勢いに、意識全体は大きな影響を受けています。

言葉を繰っても、結局現実に影響を与えるもの以外はたんなる言葉遊び
とかそういうようなこと前言ったかもしれないけど
現実というものも案外ハッキリしていないものなんですねぇ。
SFやファンタジーではないけれど
この現実世界にもある意味"具現化"しているといえるほどの濃い感情の波なんてあふれてるわけですね。

ここでは、少なくとも自分の中で明確になっていて初めて文章にしているんですが
いまもこれも、意識の一片が落ち着いてくれるまで何にもわかる気がしないです。
外から眺めなきゃどうにもわからない。
海に浸かってちゃ海の大きさは〜、とか良く聞きますけど
ここでいってるのもそういう事です。
もちろん海は青いとか、海はつめたいとか、海はしょっぱいってことはわかってるんですけどね。

多と個の繋がり、バランス、以外になにか
根本に限りなく近い真理をつかむ材料になってくれるかな。
地面でもがいてるような今の自分がものすごく嫌です。
これだけの自分に対しての恥と嫌悪感は始めてかもね




9月16日
■2日休日を休んだら
あの衝動や昂ぶりはどこへやら

必死にみないようにしていたものが
ぱっと消えてしまって
なんだか忘れてしまったことも切なくなる
改めて思い出そうとしても後の祭。

明日じっくり見てきます。




9月23日
■寄せては返し寄せては返し。
上で落ち着いたとか言ったけど、またざわついて、また落ち着いて。
ここ半年分がようやく熟しました。これで何にもとらわれない。自由だ。
空も飛べそうだ。
特にここ1ヶ月は酷かったので、独り言もまっさらにしたいが
一応記録にもなるし残しておくか。

あとー、座頭市見てきたんだけど
武はお笑いの世界でも頑張ってきたわけで
そういう実力が全ての社会でいきぬこうとすれば
自分が望まなくとも傷だらけにさせられて、淘汰されていくわけだよね。
そのうえ曖昧さなんて全くなくて、ハッキリしている

淘汰や選ばれる過程でそれだけハッキリしているということは
淘汰されて残ったものや選ばれたものは言うまでも無くハッキリしてる。
曖昧に選ばれたら曖昧に出てくる。
ハッキリ選ばれたらハッキリでてくる。それが彼ら。

なんというか、繰り返し繰り返しいったけど
この当たり前の事実が結構重要な気がする。

今まで自分は、自分をそういうハッキリした部分に引きずり出して
悪いも良いも成長も後退も、ハッキリさせてきて
その過程で自らを傷つけてやってきてた。
それがしんどくなっちゃうっていうのは、老い若いじゃなくて
単純に衰えていく道を選びそうになったってことだと思う。
だから、方向修正。これからも自分を自分で引きずり出す。
結果的にそれが、相対的に自分を他と比べられるだけの何かをもたらす事になる
とまぁ信じよう。
今までだって、今だって自分自身がそれを証明してる。

つうわけでちょいとここを区切りにする。
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9月1日
(後付けです)近々、個と多、オリジナリティとユニバーサリティについて
書こうと思っていたのだが、下に書いてある文章はオリジナリティと個の極みだ。
それは感情の極みとも言い換えられる。
何故ならば、感情は人間の持つ一番てっとりばやい、個だからだ
つまり、極端な話、下の文章に興味を持つ人間は、俺だけだ。
オリジナリティの極みであればあるほど、そうでなければおかしい、そうでなければいけない。

しかしながら、文章にするということはそれだけで、ユニバーサリティの要素を付加しているということだ
言葉を使ったわけだからね
そのベクトルを選択したということだ。
したがって下の文章は、厳密には、上で言ったように極みとまではいかないわけだ。
無理ではあるけど、是非とも純粋な個を見せたい、心の世界を覗いて欲しい。
動作ですら、ユニバーサリティを付加しているのだから。
少し矛盾があるが流そう。

一番下でも書いてあるが

"理性がすこしでも存在している人間には読まれたくない
理性が少しでも存在していなかったら文字も読めないわけだが"

とある。なぜ下の文章を書いたのかというと、その必要があったからだ。
その必要は俺のどの部分で発生したのか問われると
少し検討が必要かもしれない。
何故ならば意識というものは更に分割できるからだ。
その分割した部分の衝動、そしてその衝動によって導かれた必然性。
そのような部分部分の必要性は、意識を一つとして見なしたときに
決して好ましいものではない。
つまり解りやすく砕くと、感情的なだけの行動は決してその人間にとって好ましいものではないとか、そういう風なことだ。

(馬鹿は特例をいれるが、せっかく識者が条件や環境を限定したのに
それを無にするような愚考はよしたほうが良い。
大きなモデルを選択すればするほど、特例の入り込む余地は大きくなる。
例えば人間世界とか、そこまで広げれば何でも御座れだ。)

つまり結論としては、出来ることならば
下の文章は消して、考えることもせず、また、下の文章を書かせたような必然性も消し去ったほうがいいわけだ、できるなら
もしくはそのような自体に陥ることを回避したほうがいいわけだ。
過去は消せないが。

この今書いている序文は、俺の意識の部分、もしくは全体のどこが書いているのかと問われれば
俺の意識を一つとして見なして、俺の意識が書いているといえる。
多少まとまりが無いが、何かを得ることも可能な文章であると思われるし
書き残す価値がある文章であると思う。

この文章を感覚的"にも"理解するには、恐ろしく高度な、意識内での戦争の歴史と
意識の各部分の有能さが必要だろう。
この序文は、決して個の性質だけを持つものではない。

■塗りつぶす

君は、感情の極を知っているといえるか
論理には強弱は無い、感情には強弱がある
その強弱
言葉で表すのが急激に困難になる
まるで、爆心地に、4次元的に、つまり時間を超えて
戻ってきたようだ。

俺の世界は
塗りつぶされた。

つまり中学3年生に戻ったようだ。

人間の本能は忘れようとする、俺の感情は忘れようとしない
俺の理性は、それらをつぶさに記録して、解釈する。
意識の、バランスを保とうとしているのは、本能と理性。
感情は俺を殺すつもりなのか。

それは戦いの史で、俺の世界は塗りつぶされた。

論理は陳腐だ
正確に言葉にするたびになにかがいちようになる。

解説は無意味だ。
この文章では結果しか残さない。のこらない。

この独り言で、段々と爆心地から離れていった俺の記録は
ここで、始点に近づいた。もしかしたら一番近い点かもしれない。

人生で一番辛いときも、人生で一番楽しいときも二度とこない。
それは幸福を失ったことを意味する。
この先気が狂うことなんか無い、何故なら、今狂っていないからだ

(comment 少し理性がはいってくる)俺の存在は、俺の世界でしっかりとバランスを取っている。
俺の世界は、俺という存在を含む4次元的な、あるいはもっと高次元なものだ。
俺という存在が、能力、人格そのた全てにおいてある程度高度であるなら、俺の世界の中で、別の部分でバランスが取れていないと行けない。
腐った瞬間の持続と、その質が、良いものとバランスをとっているのだ

殺すつもりだった、とは嘘だ。
あの瞬間に戻りさえすれば、いつでも、殺すつもりになる。

ここでは、静など存在しない。今俺の心の中を見せてやれたら
それがいっぺんにわかるのに

理性で、論理で、理解することで
俺の世界のバランスではないが、俺という存在のバランスはとれたわけか
生き残るためか

(comment ある程度理性がはいる)必死に今ここまで言葉を綴った。勿論かいてこうなのだから、内部では綴った万倍億倍の解釈が試し見られている。
意味を自分で作り出さないと行けないからだ
純粋な感情に意味は必要無い。そして必要無い状態が自然ではいけないわけだ。
それも人間の存在を支配するレベルの感情には、理性は介入する余地も無い
本能と理性と感情でバランスをとっている俺の自我、意識が
もしも感情に完全に支配されつづけたら、"別のもの"になる
それはつまり俺の意識と自我の崩壊を意味する。
気が狂った状態といえばわかりやすいか

世界がぱっと閉じて点以下の小ささになって、消えることをイメージしてもらいたい
視覚でイメージしたほうがわかりやすいだろう
げんみつではなくても、今見ている世界で良い
ぱっと消えてなにも残らないことをイメージして欲しい。
そして、その、今まであった世界は黒で塗りつぶされたのではなく、感情に塗りつぶされたのだ

奇妙に論理を混ぜることしか出来ない。

俺がここで、こう文章を書いていられることは、こうもいえる
感情と理性の押し合いにおいて、バランスを失うほど感情が理性を押しつぶさなかったと
恐ろしく大きな力の上で、均衡が取れていることになる。

そして、今自分で書いたこの文章は、自分にとって大きな発見でもある
つまり、書いて知ったわけだ。
その均衡は、一般的に有能な人間で、更に好ましい人格を持つ人間を発見する時に大きなヒントとなるだろう。


感情をここで切る(俺はそう呼んでいる)ことにする
理性がすこしでも存在している人間には読まれたくない
理性が少しでも存在していなかったら文字も読めないわけだが








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