独 り 言


9月28日
■やはり良い具合に自分は固まった。さて、また新たに。

27日はクボタツって人の特別講義があったんだけど
良い意味でも悪い意味でも魅力的なおっさんだった。あれで50過ぎてるとは。
決して人格的に優れてるとか、頭が良いわけではなかったけど多くの真実を知っていた。
正直に言えばその胡散臭さと、言ってることのギャップが大きくてそこも面白かった。
あまりに胡散臭かったもので。
しかし、いるべくして今の位置に居る人なんだなぁ、という印象を受けた。

メモをとる、本を読む、イメージでメモをとる、イメージが発想を生む。
俺も賛成。
頭の中でぼやーっと存在するものを、より忠実に残す為には基本的に言葉よも絵の方が良い。

付け加えれば、本を読むという事は言葉を絵として扱えるようになる為にも必要な条件だと思う。
もちろんそれが一番重要な理由とは言えないけれど。
だから自分は言葉を使いすぎていても、むしろ言葉を使っているからこその発想を生める。
方向性は置いておいてね。

ああいう人が友達にいたら面白いよ、きっと。
俺みたいな人居ないかな。
頑張りすぎて張り詰めすぎたけど、運悪く死ななかったみたいな人。

■日曜で暇なので、ポケットに名言をという寺山修司の本を読んでいる。

T・E・ロレンスの一節の中に
「人類よりも偉大となるべく誠実に努力したごく少数の人々をみつけた。
私の空腹を満たすものは彼らの悪戦苦闘だけだ。」
という部分があって、にやりとした。

俺も以前そのものがそのものである為の器について考えた。
その器を越えようとしてその器を越えてしまえば、そのものがそのものである為のバランスは崩れて、別のものになってしまう。
つまり、人間を超えようとして本当に人間を超えてしまって、人間である為のバランスを崩してしまえば人間じゃなくなってしまう。
なんと言うか厳密にというか、概念の問題だが、そういう事だ。
人類よりも偉大となるべく、という部分は、人類を超えて人類ではなくなるべく
という風に解釈できると思う。
まさしく俺はそのごく少数の人々を好ましいと思う人間だ。同類だからな。

また、三島由紀夫の本から

「僕の思想、僕の概念、そんなものはありえないんだ。
言葉によって表現されたものは、もう既に、厳密には僕のものじゃない。
僕はその瞬間に、他人とその思想を共有しているんだからね。」

「では、表現以前の君だけが君のものだというわけだね。」

「それが堕落した世間で言う例の個性という奴だ。
ここまでいえばわかるだろう。つまり個性というものは決して存在しないんだ。」

つい先月、俺が独り言に書いた文章と意味は同じだ。
三島由紀夫もこういう事を考えた事があるらしい。何歳のときにどうして考えたんだろうか。
想像すると非情に感慨深くなる。
俺は意図せずいろんな人間が通った道筋をたどっている。
こういう事はこれで数度目だ。嬉しくもあり、疲れもでる。
こんな人間と会いたかった。

明快で達意たれ。そういう文章を、ゆくゆくは、書けるようにもなる必要が出てくるだろうが
いつか透明な文章を書くために、今はもっともっとにごっていなければいけないとも思うのである。
そしてその汚さを散々罵倒されたいと思う。



9月29日
■謙虚という言葉を辞書で調べてみる。

- ひかえめでつつましやかなさま。自分の能力・地位などにおごることなく、素直な態度で人に接するさま。

と、かいてある。
ずっと謙虚さは良いものだと信じて、考えを深めてみたものの
どうにも自分と整合しない。

謙虚さにまつわる問題が美徳悪徳など、そのようなものに限った問題なのなら
謙虚という言葉には綿埃ほどの価値も無いんじゃないだろうか。
思うに、反省が出来ることのほうが有意義だろう。

何かを恐れて歩をとめるような考え方、謙虚さよりも
歩きつづけ、そこから何かしらの自覚と理解を得ていく反省のほうに価値を感じるのは
俺自身が不完全性の自覚を持っているからだと思う。
さっきふと、何事にも無力だなと思った。
無力である事のほうが多すぎて、それを想像するだけでくらくらくる。
そして謙虚さを大事にするほうが傲慢な考えかただとも思ったりする。

少しつらつらと書いたが、謙虚さ自体には何の罪も無い。悪い事ではない。
ここに書いた事は勝手な俺自身の拡大解釈で、好き嫌いのようなものだ。
ただ言えるのは、俺の書いた拡大解釈と逆のあたりのものを持つ人間が
その勝手な解釈を振りまわし、それで殴りつけてくる事が往々にしてあるという事。
俺はそれが嫌いだ。
簡単には流れ出ないほど、日本人に染み込んでしまっているわけだが。

謙虚さ自体には何の罪も無い。
罪を犯すほどの力も無い。




10月1日
■個性というものが有りえないという話を書いたが
それはつまり、当然なことだが感情を正確には伝え合えないという事だ
大きな感情であればあるほど。オンリー1であって、NO1であればあるほど
それを伝え合えない事をもどかしいと感じるときがある

とりあえずメモ



10月8日
■むう。忙しいからか
何かを考えても、感じてもすうっと流れていってしまう。
もったいない気がする。




10月9日
■ネット上にキャラミルという性格診断のようなものがある
センスがよくて面白いし、当たる。是非やろう。

そして、そのキャラミルでは、1つの表属性と3つの裏属性があって
3つの裏属性の中に自分は"mother"という属性がある。
属性の説明によると

 支持する意見やヒトに対しては
 すぐ心のファンクラブ第1号になってしまうので
 客観的になれないところもあります。

motherにはそんな部分があるとのこと。これも当たってるな。

今までに自分は2人の女性のファンになったことがある。
高校のときに一人、専門学校にはいってからバイトで一人。
すぐに増えるかもしれんがわからんから置いておこう。

皆頼もしくて、強くて、一言で言うと「勝てねえ」という感じの人だった
そしてミステリアスだった。あるラインからは何も、俺にはわからなかった。
あるいは何も考えていないのかもしれない。
わからないという事があるという事がわかる、という事が通常の人とは異質だった。

その全員にはさらに共通したところがあった。
それは、自分とその人の関係などすぐにもぷっつり切れそうなところだ。
実際に簡単に切れてしまうだろう。
俺にとって、相手が強くて頼もしくてミステリアスだという事は
俺が必要とされていないという事と同じような意味を持つのだ、きっと。

俺はファンなのに。

喜びは、同じだけのむなしさと絶望と隣り合わせだった。
片方だけ見ようとしてもすぐに隣が見え隠れした。
それらはセットで、引き離す事はできなかった。

あー、ファン。言い得て妙だ。
本質を突いてる。ファンと呼ぶのは細かい意味でもただしい。
それは受動的だと言う事だ。
常に大きく受動的でなければなりたたない。
もちろん、現実世界での関係をファンだと比喩しているのだから
芸能人のファンだとかそういう事とは、厳密に比較すれば違いがあるけどもね。

そうか、俺はファンだと割り切れるはずがない現実での人間関係で、ファンであると認識しているわけか。
だから不安なわけか。
だから喜びとむなしさと絶望がとなり合わせなわけか。

天啓を得たところで、技をかけられる直前のプロレスラーよろしく
次の覚悟を決めようか。俺よ。





10月11日
■だらだら日記をかいたので載せてみる
日記自体は毎日書いてるんだけどね。
ウェブ上に仲間内だけで。

11日は土曜日。
しかし学校はある。
午前中にネットワークセキュリティというものがある。
予想していた通り恐ろしくつまらない。

二度寝を繰り返していたら、15分ほど時間に遅れてしまった。
前日は12時に寝て8時に起きたのだから7時間半以上は寝れていたはずなのに眠い。
長期休暇の間は、しっかりと睡眠時間を取っていれば眠い事は無かったし
ドライアイも無かった。
なぜか、学校が始まると目が疲れるし体調も悪くなる気がする。

結局最後の1時間くらいは寝た。

最初の1時間ほどは夏目漱石の三四郎をよんでいたのだが、なかなかに面白い。
あと、ゆうりんどうにいったらケン・グリムウッドのリプレイがあった。
八王子であれだけ探しても無かったのでありがたい。

牛丼をまたたべる、もちろん唐辛子はたっぷりかけて。
ただこれをやると痔になりそうで怖い。
ひりひりするときがある。

時系列を織り交ぜる。

時系列というものは、人間にとって複雑なもので
前日の、もうとってあるシスアドの問題のタイムテーブルを利用したものも、さすがに頭の中だけでは組み立てる事が困難だった。

脱線しました。

午後はバイトに出る。1時から6時まで。
5時間働けば4000円です。馬鹿にならない。
Iちゃんの女子大の文化祭だったそうだが残念ながらいけなかった。
ただ、バイトにTさんがきていたのでハッピーだったが
怒られてしまいへこむ。パワーアップしてやがる。
"ほんとに久しぶりだね"。あー、でもちょっと悲しい。
悲しいという結果には、何らかの原因があるわけだ。
ああ。
ただ、まだお別れじゃない。
お別れのときにもっと悲しもう。

TAさんたちが帰ってきていた。
もしかして水曜日昼から暇だったら、差しで真昼間から酒宴でしたか。
俺が持ちません。やはり親分にはかなわん。

明日は11時半に相模原に集合で
U君やYちゃんと、K君たちとビリヤードらしい。
起きられるか心配だ。
なんだかのりきでない。

自分のペースで無い。

欲求に従いたいが、欲求を従えるほどのエネルギーが無い。
昔はあれだけのエネルギーがあったのに。
少したって自由になったらぷいと消えてしまった。
自信を持って、相手を束縛したいなんて今は思えない。

一緒に居たいと思って、一緒に居る。
一緒に居てもらう。
そのことに、こんなにエネルギーが必要だったんだろうか。
俺は欲求に目移りしている。
五兎を追うものは一兎も得ずして、さらに手痛い被害をこうむるに違いない。

一昔前の独り言みたいだ。
高校生のときからの成長記録だからな、あれは。

表現は違っても、言ってる事は似たような事だと言うのは往々にしてある。
自分がいっぱい居る気がするというのと、俺のいって居る意識の分割は似たような事かもしれない。
とか、そういうこと。

だから書いておいてみれば、覚えておいてみれば
誰かにわかってもらえるかもしれない。

俺は何が欲しいんだかちょっとわからなくなっている。
他人の意思が介入してくると、それも意図もわからないような意思が介入してくると
事態はより複雑になっていく。
整理する事だ。後悔はしたくないし、より良い答えを見つけたい。
何が欲しいんだ、何が自然なんだ。






10月13日
■とか書いているが
9月に比べれば、それ以前と比べれば安定しすぎるほど安定している。自由であるし。
といっても、9月もそれ以前もわざわざ不安定というほど不安定なわけではなかった
さらに言えば、今現在多少でも不安定だとしてみるならば、どちらかといえば幸福な不安定に位置するだろう
360°周りが全て道でどこに進もうか迷ってる、とでも言わせてもらおうか

ただ、姓名判断に出てきたように俺は運がわるくて、10月に入ってからやっと人並みになったような気がする
ここ1年半程、着実に運勢がDOWNして来たような気がする。
これから上がっていくと信じたい。

ティム・オブライエンの本当の戦争の話をしよう、を読んでいるのだけど
悲しくなってくる。
その悲しさをどうしようもないほど意識しているうちに
どれだけ悲しめば他人を悲しませないように、傷つけないようにできるのだろう
と、また考えてしまう。

大勢の人と会って来たが、この人は他人を悲しませないと期待(間違ってはいる期待だが)できる人は一握りしかいなかったような気がする。

コンプレックスにまみれた人、感情や衝動に振りまわされる人。
それを自覚している人、自覚していない人。
歪んでいる人、愚かな人。
それらは全ての人間に共通して存在する属性だが、その強さや状態に関しては知ったこっちゃ無い。
人それぞれだ。

そういう俺があんまり良くないと思う属性が強い人達は
"直視する必要性"にはっきり出会っていないんじゃないだろうか。
どうしようもなく見なくちゃならなくなったら人は見るものだしね。
死んでしまうから、とかそういう事じゃない。人間だからだ。

痛みを知れば他人に痛みを与える事なんてしたくないはずなのに
それでも人の事を考えずに人を傷つける
もしかしたら、自分が傷つけられたり、人に悲しまされていることさえも自覚できてないんじゃあないだろうか。

〜たくない、と思って次に、〜ないようにできるのかと考える。
それの次はなんだろう。



10月18日
■必死さとガキっぽさ、余裕と大人らしさ。
自分も両方を持ってる。
必死さに誇りを持ったりガキっぽさを戒めたり。
余裕であることを自ら蔑んだり、大人らしさにあこがれたり。

ここは必死でガキっぽいところです。

よーーく考えてみたが、自分は今のままで良いらしい。
明日は何があるかなー。


■eminemの8mileを見た
冷静で真剣な議論、激情に激情を重ねて辿り着く調和。
どっちも面白いねやっぱり。後者はそんなに経験した事ねーなぁ。
洗練された感情の激しっぷりってのも学んでみたい。

風邪で午後に寝たんで寝れない。
かといって、何する気も起きないんだな。
本を読む気もゲームする気も漫画を読む気もテレビを見る気にも
誰かに電話する気にも夜の散歩にいくきにもならない。
酒もいい、さっき飲んだら不味かったしすぐ酔った。
何にもする気が起きない。

でも何かしたいんだから困った。
わかってないだけで、本当はすごーくしたい事があって
だからこんな状態なのかな、今日は。



10月20日
■なんでも自然なところに落ち着く。
結末が存在する為に必要な要素は、自然であることだ。
不自然な結末などは無い。不自然だと感じたらそれは結末ではない。

一つわかった事がある。俺もわかるし、わかられていることがわかった。

力不足だ。
とりあえず、俺は俺に対して誠実でいよう。

それと後1,2発食らえば上手くいなすコツが掴めそうだ。
クロスカウンターの。




10月25日
■信頼と人間関係の関係。
人間関係に絡む疑心の扱い方。
信頼と理解の関係。
人間は誰も信用しないのか。



11月1日
■人生、自分のためにも、その人のためにも、その人に会わない方が良い時だってある。
昔の俺はそれが出来なかった。
ただ、何かの衝動をその人に会う事で、一緒になんとか解決しようとしていた。
頑張ってはいたわけだが、空回りしていた。

それを望まないほうが良い時もある
どんな正当性を含んでいても、どんな善性を含んでいても、どんな素晴らしい願いがこめられていても。
望んでしまう時期ではない時がある。その時期に望んではいけない事だってある。
急ぎすぎて体が前に出過ぎて、それに足がついていかなくて転んでしまうような。

狼は、狼の群れに居ても本質的に一人だ。別に一人で居ても寂しくはない。
遠くで色んな動物が、いつも一緒に仲良くしているのを見ても寂しくはない。
ただ、仲間にいれてもらうと羨ましくなってしまって。
自分にはきっとできなくて、それに望むべきことじゃないとわかっていてももっと望んで
そしてただただ、悲しくなる。そんな時狼は一人に戻る。
誰かにさとられないうちに。
また今度、ずっとのうちのほんの少しでも、普通に仲間に入れてもらえるように
急いで家に帰っていく。
狼はそのまま2日くらい寝て、なんで悲しかったのかも忘れてしまうまでは、何も話さない方が言いのだ。
本当はもっともっと色んな事を忘れてしまうまで、寝た方がいいのかもしれない。
もう起きない方がいいのかもしれない。

狼は狼の群れの中だけで、本質的に一人で居た方がいいのかもしれない。



11月21日
■偽りが無く
家族が家族として自分を愛してくれるのなら、自分はその人を家族として愛する事が出来る。
相手が好きだと思ってくれているのなら、自分は相手の事を好きだと思える。
相手が自分の事を嫌っているのなら、自分は相手の事を嫌う事が出来る。
互いの気持ちの調和は自然であって、無理がない。
逆に調和が無ければそこには多少でも無理が存在する。
だからこそ、例えば失恋をしたりしても元に戻るんだ。
調和、自然な状態に落ち着いていく。これは自然なことだ。

以前、強すぎる愛は毒になるといったが、それをこれになぞらえれば
自然さを壊し極度の無理を互いの間に持ち込むからこそ毒になるのだろう。

大きな間、自然になれない場合も有る。別の何かを自然だと固く信じてるからだろうか。
それとも単に無理解と無自覚からだろうか。
互いの関係よりも、自分の欲求の方を当然のように優先するからだろうか。

過去の過ちは大きな事を教えてくれる。
『経験は良い薬であるが、病気が治ったあとでしか手に入らない。』ジャン・パウル
せっかく手に入った薬を、飲まない事を選択してはいけない。

『賢者は征服するよりも深入りしないことを得策とする。』ラ・ロシュフコー
実際に、俺はほとんどの場合において賢い。
これからますます賢くなるだろう。





11月22日
■平等で素晴らしい神が
例えば人間として、実際に現実にいるとしたら
大勢の人間を幸福にして大勢の人間を不幸にする。
一人の人間を幸福にして、不幸にもする。
その人間が幸福になればなるほど、不幸になる。
その人間がなにも感じなければ感じ無いほど、何も変わらない。

神はきっと、"現実的に存在"しない方が良い。
人は上で言った調和を、互いに求めている。
神にはそれがわからない。
神にとっての自然さは、人間にとっての自然さとは違う。

神が居るわけないのだが
もし本当に神が居たなら、誰も平等なその神を愛しぬく事は出来ない。



11月28日
■いずれ克明に全ての経過をまとめるつもりだ。
時間が足りない為に一気に仕上げられないが、継続的に手を加える。

■このページの文章を読み返した。
なかなか自分は面白い事書くなと思った。
しかし、10月9日以降顕著に現れている傾向がある。
それは抽象的になっているという事。
10月9日以前と、11月に入ってのほうが完成度
(出来の良し悪しじゃなくて言葉そのままの意味ね)
が明らかに高い。

今現在の俺の中では、その抽象は具象に変わっている。
その抽象さ加減が今読むと面白い。




11月28日 - 12月6日
■俺はものを良く書く。効率良く書く。流れを意識して、ポイントも意識する。
生きる事の、俺自身のLOGを取っているような感じかな。経過を克明に記録している。
そして、それとともに分析している。整理している。確認している。
次への方向性を導き出している。最善を尽くしている。

適当に言い散らすと、俺にとっての書く事は、そうなる。

まとめていうと
俺にとって書く事は、問題の解決そのものだったり、その一方法だったり
問題の予防だったりする。
そしてそれ自身を楽しんでる時もある。

言葉は俺の"客観"の役割を担ってる。もっといえば論理が担ってる。
ある視点において十分な客観性があれば、その論理は正論といえる。
正論はそのまま事実になる、そして事実を指す。
そうやって自分の言葉、事実に叩かれ、外に出た言葉ははっきりと評価される。

正論それ自体は対したものじゃない。
それよりも俺は、自分の正論が向いている方向性を信じているし、好ましいと思ってる。
なんのために正論があるのか。それに出した自分自身の答えを信じてる。
それでも、あまりにも不充分な現実があると言う事はわかっているけど
幸いにもそんなときは少ししか来ない。

問題の解決そのもの。
でも、問題の解決とは自分自身だけのものじゃない時がある。他の人が関わったりね。
そうしたら問題を解決させる為に必要なものは自分だけでは判らない。
色々とハッキリさせる必要がでてきてしまう。
知らなければ知る必要がでてくる。聞く必要がでてきてしまう。
それはある種の人間にとって、酷な事で負担になる。
それに限らず、問題が大きくて複雑であるほど、かかる時間や労力も高まってしまう。

そして、"共通の問題の解決の負担"を、人間は"相手の責任"だと認識できる。
それは正しい。でもそれを追求する事は優しくない。
人間はあまり優しくない。

それを見るのが嫌だから、最善を求めて見苦しいほどに必死になる。
女々しく映る。必死な俺は見苦しくて醜い。
しかし本当の強さや、本当の男らしさ
本当の辛さ、本当の痛みを知っている人は笑わないで居てくれると思う。

しかしどうやっても、自分の中だけでは無理で
矛盾が生まれだす。
問題を解決する為に頑張っちゃいけない。負担を嫌がられ、醜い俺自身を嫌われる。
解決するのをやめるか、頑張って嫌がられるか。どうすればいいのか。
全く完全主義者的な矛盾だ。
でも、無関心という大きな武器を持って、自分は強いのだと勘違いしたくはない。

多分これが、事故や刹那的なミスでなく、意図的でもなく、俺が他人に負担や傷を与えうる唯一に近いものだと思う。
そして俺が迷い、自分を疑う唯一の事だ。

ここまできてこうもいえる。
"自分の中だけで"にこだわる為に書くようになったのだろうと。
出来うる限り見せたくなかったのだと思う。

そして、俺にとって書く事は、白鳥が足で水を掻く行為だと言える。
これに集約する。
白鳥の水面下だけを見て、どう思うだろうか。
色々と判った。上だけを見せておけば良い。
まぁでも、水面下だけ見せるという状況は特異なものだから
俺は水面下の影響を慎重に水面上に伝えれば良いのかな。

昔、この矛盾に最悪の形で出会った俺は成す術が無かった。

そしてこれが、俺の、第一の負担だった。
次はもう少し実際的な事を。



12月14日
■出来る限り多くの人間を信用したほうがいい
そして、出来る限り多くの人間を信頼しない方が良い。

俺は多くの人間を信用している、しかし誰も信頼しないように努めている。
信頼をしてしまったとしたらそれは俺の罪だ。

■友人の醜い部分なんか見たくない。
いくらそう信用していてもな。媚、嫉。欲。
これが第2の負担だった。

■人は時に、ある種の破壊衝動に襲われる。
生と死が連鎖する事を人は知っているから
茫洋とした希望にすがって、様々な死を作り出すのだ。

退屈から逃れる為に
あるいは襲い来た絶望や、終わりの余韻が過ぎ去るまで耐える為に。
新たなハジマリや生を、薄く曖昧にでも夢見たい。

生を作り出せない男にとっては、よりはっきりとわかる類の衝動だろうな。
例えば不良少年とかな。
うむ、実が無い

■自分だったら、残酷でない神になれる。
その境地を得たい。

■時間はべんりなものだ。自然な位置になにもかもをおちつける。
自分で自然さを見出せなくても大勢の人間を助ける。

時間がたって元に戻る、自然な状態に戻るのだとしたら
時間に頼らず元に戻ったり、戻る必要自体を無くす事が出来るんじゃないか。
全く無理じゃない。

■100あるものから80をとったら残りが20なのは揺るがない。
総量が160あるかもしれなかったら、80をとって80を残すという"考え自体"は無理じゃない。
しかし総量が100だったら、その考えを実現させる過程で無理が生じる。

いかに100から80をとって80を残すか。
案外簡単な事だ。

■互いの気持ちの調和は自然だと以前言った。
例えばある友達を思い浮かべてみる。
言葉で僕らはこれこれこういう関係だよね、などと確認しなくても
偽りが無かったら、きっと互いの気持ちは大体同じ所に調和している。

そしてその調和があるからこその本物であって
自然に従う事は難しい事でもなんでも無い。

だからそれが出来ないなんて思わないでほしい。
繰り返すけど、びっくりするくらい簡単な事だから。

■ある言葉がある

離れればいくら親しくってもそれきりになる代わりに、
いっしょにいさえすれば、たとい敵(かたき)同志でもどうにかこうにかなるものだ。
つまりそれが人間なんだろう。 夏目漱石『道草』

人間の、人間関係の本質を2文で表した言葉だ。
両極端な例をあげて、その間の全てを読者自身に補間させている。

そう極端じゃないことでも、結局こういうことだ。
互いの気持ちや相性が直接関係を作るんじゃない。
一緒にいる時間が関係を作る。
気持ちは時間を作るに過ぎないのだ。
だから気持ちさえ通じ合っていれば、などとは勘違いしない方が良い。
気持ちが関係を作るなんて考えは間違ってはいないが正解でもない。

■五時だ、眠い。
大きなモノが後みっつ。俺はどうしても成さないといけない。




12月17日
■村上春樹の小説の主人公は、良く女性と寝る。
その大体が静かに簡潔に寝る。描写すらされないで寝る。
寝るということだけをくっきりと浮かび上がらせるように書かれている。

感情の伴わない性交。
決して彼の作品世界の人間は情熱的ではないが
しかし、複雑でいて豊かな気持ちが紙面の上には存在する。
見ようによっては強すぎるほどに存在している。
それは確かだと思う。

どうも自分は、それらを踏まえるとある種の区別を見出してしまう。
その区別は、彼の作品群を通じて同じ区別ではないかもしれないし
実際は存在しないのかもしれない。
だけど、寝るということの周りには大体において、丁寧に消しゴムをかけたように感情が絡んでいない。
それが乏しいながらも、俺の中での根拠になっている。

俺は彼の作品の中の、"寝る事における特定の人間との繋がり"と
"寝る事で無い事における特定の人間との繋がり"に
意図的な恋と愛の区別を感じる。(人間とはいってもほぼ100%異性だ)

実際のところ、俺にもこの俺自身が主張する区別の、明確な定義が出来ていない。
愛と性欲なのか、愛と恋なのか、人間的好意と性的好意なのか。
後者は"異性と認識出来るもの"に対しての意識である事ははっきりとしているが
単語ではなく文章によって、もう少し細かく説明されるべきものなのか。
単なる一読者である俺には、村上春樹の作品について
これ以上ハッキリとした言及をする事はかなわないかもしれない。

でも、もう、自分自身についてははっきりと言及できる。
俺はその区別が一般的な他の人間よりも明確らしい。

人間を"自分と関係するもの"として見る時、この二つははっきりと区別されている。
異性と認識できるものとして好きなのか、異性と認識できるものではないものとして好きなのか。
簡単に言えば、好きだとしたなら、女性として好きなのか人間として好きなのかがはっきりと区別されている。
これらは別物であって、相乗して関係自体に対する俺のスタンスに影響を与える事はあっても
決して混ざらない。
そして比較できるくらいに、後者の力も強い。

これは少し普通で無いかもしれない。
人間として好きになる、という事は決して他人に理解されない事じゃない。
でも一般的な人間にとって、それはあまり強い力を持たない事のようだ。
でも俺にとっては人間として好きだという事の方が強い意味を持ってる。
恋なんて簡単に断ち切れるが愛を断ちきるのは少し厄介だ。
実際のところ、恋なんていうものは誰とでも出来るようなものだけど
愛は世界中でその人だけに拠るものだからだ、多分。

実はこんな長々と説明しなくても済ませれたかな、プラトニックって単語で。
俺はどうもプラトニックな傾向が強いらしい。

でも、プラトニックでなければいけないわけじゃないので、その辺を踏まえて見下してください。

■これで後二つ。必要性に迫られると簡単に輝きを失う。

推敲しないとどうもなー、あああああああー




12月23日
■そういう話をする必要がほんの少しあったのは、俺が大事にしたかった方の気持ちのせいだ。
そしてきっと、あんな言葉を見なければその必要性は殺していただろう。
わかってほしい。
そうする事でしか干渉できなかったという現実も。
結局本当に必要な一文は最後の方で自分から自分につきつけた、ハッキリとした物だった。
最後まで同じ道を避けてた。


■恋と愛についてもう少し、次に書くつもりだ。

■もう幾つかかいたら、自分のための文章を書く事はやめる。
見えない部分であっても方向性を変える。
材料は先月のうちに全て用意したものだが。
少しペースをあげよう。

■論理と、俺の想いや私見や個人的な考えはまったく別物だ。
俺は前者によって、俺の愛すべき人達に最大限に従わない用意がある。
俺は後者によって、俺の愛すべき人達に最大限に従う用意がある。
結局のところ俺の主観なんてものは、俺にとって大事な人達に比べれば何の価値も見出せない。

だけど、本当に、失いたくないものなんか無いんだ。
これはどういう矛盾だろう。
そして失いたくないものは失われるべきものらしくて、これは一種の法則らしい。
そんな事を理解してしまったら、いつまでもぼんやりとした不安が消えるわけも無い。


■憧れは偶像に過ぎない。

■人気のある友達、好きな友達を独占したい。
小学生の時分、そんなような妬みや欲求を感じた事がある人は少なくないと思う。
抽象的だが、人は確固とした自分の位置がわからない場合、自分の位置を知りたがる。
他人からの意識は自分の位置を知るのに役立つのだ。
比較という概念が人間にこうも浸透しているのは、便利で必要不可欠だからだ
そしてそれに頼りすぎた人間は、自分で自分の位置を把握できない。

子供の時からもう駄目だった。
子供だから許される醜さ、理不尽さに子供であっても触れたくなかった。

■ある世界において、自分からそれを絶対に失えないなら、それを自分から得ることはできない。
能動性の有無。

■愛によって生まれるひとつの感情について、深く考えたい
自分は大抵の感情は管理できる。また管理し切れなくてもぶつからせて笑っていられる。
子供に全力でじゃれられている親父のように、余裕を持っていられる。
正しく表現するとすれば、十分に感情を感じた上で行動や思考への影響を遮断できる。
例えば怒りが、自分の奥深くで強く渦巻いていても、それを十分に味わった上で制圧できる。
しかしこの憎悪というやつはどうも管理できない。
そして暴れまわらせると、その影響を笑って見過ごせない。

昔の海外の人々は胸に心があると信じた。
そして誰しも、強い想いで胸がいたくなった事があるんじゃないだろうか。
心の動きが肉体に影響を与えた事があるだろう。
胸が2週間ばかりずっと痛みつづけた事もあった。動いただけで筋肉痛のように痛んだ。
もっと大きな心の動きがあったのなら、死んでいたんだろうか。

憎しみとは一体なんなのか。
辞書には、よくないこと、あってはならないこととして許しがたく思う、そう書いてある。
辞書を馬鹿にしてはいけない。適切な意味だと思う。

愛と憎しみは同一のものだ、そういう言葉を残す人もいる。
愛するの反対は愛さないであって、憎むではない。
憎しみは愛によって生まれる。
愛が無かったら憎しみも無くなる。
愛と同一であって向けた方向性が違うもの、俺もそう思う。

愛によって生まれる憎しみは、いつもその愛よりも少し強い。
全身全霊で人を愛し、それによって生まれた憎しみは、その人の全身全霊よりも少し強い。
罵倒して、非難して、大声を張り上げて、暴力を生み出すようなものが体の中で暴れる。
他のどんな感情よりも、時間によって薄まる速度が遅い。
そして、憎しみは簡単に誘われる。他人の醜い感情は、この炎をより強く燃えあがらせる。
他人の好ましい感情が、愛をより強く燃えあがらせるように。

実は憎しみなんてものは、一瞬で簡単に反転してしまう。
しかし、そうなるべくして、憎しみが生まれるような状況はそれを許さない事が多い。
でもね、簡単に一瞬で反転するんだよ、本当に。
そして実際に憎しみを味わえば、他人が憎しみなんか持ちつづけないように努力したくなる。

生き延びる為に、この憎しみをどうにかしたい。
愛の為に憎むというこの人間が持ち得る最大の矛盾をどうにか解決したい。
でも、憎しみを消す為に愛を消すのは悲劇だ。
もっと理性を強めるか、記憶をコントロールするか、愛を捨てるか
憎悪に蹂躙されても意に介さないタフさを身につけるか、生き延びる事を諦めるか。
内包できる矛盾を広げる為に、自分の器を広げるか。
理性もタフさも器の大きさも以前とは比べ物にならないはずなのに。
憎しみが目障りだ。


ああ、サッパリと消えた。
人は憎しみを強く感じられる癖に、それを生む裏切りを強く感じる事が出来ない。
裏切りを生んでしまう信頼を感じる事が出来ない。
こうまで嘆いている俺でさえもそうだ。
信頼の影を感じ、何度か悩むことはできた。
しかしここでは過程なんて意味を持たない。結果だけが意味を持つ。
救いや助けを得る為ではなく許しが欲しい。
だが自分自身を許せない間は、無理だろう。






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