■2006年08月28日(月)06:39
おわり
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多分寝付いたの25時とかで、眠い。
人間とは繰り返すものだなぁと思った。 自分もだいぶ無駄を繰り返している。 一つ先のサイクルへ移るために、必要なことについて考えた。 それは諦めることだと思った。
自分はきっと、こうして、言葉というツールを利用して "実際に対面できる人間よりも多くの人間"と接点を得たいと、内心で考えていたのだろう。 考えを文章化して整理するという目的もあったが、もう一つの目的は僅かな接点を得ることだったと思う。 そうして、自分より優れた人間が何らかの助言や指摘を与えてくれる、というような期待や 既知の人間が何らかの悟性を得て、協力してくれるかもという期待を抱いていたんじゃないかと思う。 もちろん、理解の促進などによっての、既存の人間関係の再形成や成長も、貴重な反駁の元として見積もってね。
しかし実際には、悩みなど、自分の本音で書いた文章は、自分自身にとっては現実であるのに やはり大衆にとっては圧倒的に非現実的であるようだ。
自分と同等、もしくは優れた自我と能力を併せ持つ人間と出会えない孤独さなんて、想像も出来ないだろうし それについての諦観ゆえに、もう十分に生きたと思うだの、人に失望するだのなんて、物語としても3流。 そして渇望ゆえに、他人の自我を改善しようと辛辣で残酷な指摘という無駄をするなんて、周りからすればただの悪徳か。 いわんや、極度に高度化した議論は情報確認へと集約すると認識している人間がどれだけ居よう。
ただ、現実に他人と対面した場合については その殆どについて、俺の非現実性が相手の現実とリンクし、理解されるようだ。 要するに、山の麓に立てば、山という段階の違う存在でも受け入れざるを得ない。 まぁ大仰すぎる例だが、方向はあっている。
こう考えが進むと、なにも考えずに生きて死にたかったと思う。 幸せとはその大部分が人間の作り出した幻想であろうとも、阿呆なら幸せだったろうと思う。 俺が幸せを見て取れる対象は、犬ころと子供くらいのものだ。 彼らからは、嗚咽にすら幸福を感じる。他に幸せな存在など、見たことがあるだろうか。
まぁなんやかんやとそんな状態なので、吐露的な文章を主体とするこのような形で 世間・世俗に参与するメリットはなんら無いというように、最近感じ始めた。 伝達ツールとしての機能は消化不良だし、対面すれば良いし、言葉によって修飾する必要もない。 馬鹿げた考えを隠して常識を行使し 大衆向けに当たり障りの無いことを書き連ねることは出来ても、それではお互い何の良い事も無いと思うし。 それに、もう自分の中で整理されていないことも殆ど無いと思うし。
なので、素材そのまま、気持ちや考えや価値観をこのように直接書き連ねることはもう無いだろう。
日常の記録も今日で一旦終わることとする。 ただ、小説など別の形で文章を形作ることについては興味があるので 趣味の範囲で、別の場所を見つけて何かやることはあるかもしれない。
mixiのほうもアプリとかでの自動チェックでなく、自発的にログインする頻度が落ちてきたので いっそのこと機械的なチェックはやめて、プロフィールに連絡用メアドを乗せることにする。 接点だけは残しておく。
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