PCについては結局、FAITHで新しいのを注文してしまった。
72,000円で、デスクトップ。
クアッドコアとか、それ以上の奴は電気使いすぎるのでCore 2 Duo E8500 のにした。
少なくとも、PCのPentium4より絶対良い感じ。
後は長生きしてくれることを望む。
購入するに到った一つの要因として、秋のプロマネが論文B評価で落ちてた。
後一歩。それこそ、字がきれいだったら、良く消える消しゴムをもっていってたら、採点者が違う人だったら、受かってたかもしれない。
結構ショックだったので、そのレアな感情の動きを利用した。
感情が動くと、お金も動く。自分にとってお金を動かせる機会は貴重だ。
自分で認識している以上にショックを受けているようだったので、夜勤の日と明けの日はかなり久しぶりにつとめて何もしなかった。
意識して休んだ。
まぁ、健全にショックを受けることが出来るというのは、素晴らしい。若さの表れだと思う。
平均受験者年齢は38,39の資格だし、論文の根底となる実務経験はもっていないし、何の意義も権限も無い陳腐な国家資格だけども
自分にとっては受かって当たり前という気持ちがかなりあったことも、がっかりした一つの原因のようだ。
人は物事を"当たり前"とみたり、"特別"としてみたりする。
これは色々と有意義に利用できる、人間の意識の働きだ。
気持ちの面で言えば、当たり前のことに失敗すればがっかりするし、特別なことに成功すればうれしかったりする。
現実的な部分で言えば、特別だと認識し続けることはすなわち、その物事に対して、距離を置いているということだ。
たとえばある動作や作業を99%成功させることは、特別だなんて認識していては、いつまでもかなわない。
そういった意識、"特別"を"当たり前"に変えられる人間の底力は恐ろしいものがある。
変わるのではなく、変える。
努力はそれを達成するための強力な武器の一つだ。
物事の捉え方のカテゴリについてもっといえば、"特別"だとさえ認識できていないことだってある。
それはつまり、頑張ればできるとか、もしかしたら出来る、とかよりももっと遠くにあって
自分の可能性の範囲外におかれているということだ。
同時に、想像の範囲外におかれている場合もある。
想像も付かないことなんてできっこない。
そんな感じで、昨日は職場の忘年会だったんだけど
先月来た事務の子が、女の子の弱弱しさと物事への傾倒の仕方と、母親的な包容力、強さを兼ね備えた方だなと再認識した。
日本が、彼女のような人間が幸せになれる国であればいいなと思った。
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