ベンジャミン・バトン 数奇な人生 特別版(2枚組) [DVD]
レボリューショナリー・ロード/燃え尽きるまで スペシャル・エディション [DVD]
ベンジャミン・バトンを見た。
老人として生まれ若返っていく男と、普通に年老いていく女の物語。
残された日記を元に、過去を回想していく形で進む。
デヴィッド・フィンチャー監督のデビュー作として考えられていたけど、当時の技術じゃ無理だったから流れたらしい。
子供の好奇心とエネルギーを持つ、老人の体というのは、それそのものが興味深い。
若い頃のケイト・ブランシェットはぴちぴちだし、ティーンエイジャーであるブラピもそれっぽくて、まだまだ粗はあるけど、CGはすごいと思った。
2時間以上あるけど、すっと見られた。
後、レボリューショナリーロードを見た。
これもまた夫婦をモチーフとした映画だけど、こう人と人との距離が近づきすぎたせいで
お互いのパーソナリティをゴリゴリと削り合っていく物語。
絆に縛られているとはいえ、通常であればどちらかが離れていってしまうのに、そうはならず、狂気的な領域にまで至ってしまう。
そんな地味でありながら濃い状況を、主演の二人は熱演していた。
高い演技力だと思う。
後は7月1日から公開されてたいたイヴの時間を見たり、エルフェンリートを読んだ。
エルフェンリートについてはアンサイクロペディアが詳しい。
最近自分の無能力さの一つに気がついた。
それは、クレームを行う能力だ。
「要求を相手に伝え、通す能力」と言い換えられるかもしれない。
しかし、そう言い換えたとしても、いわゆるクレームという言葉から受けるであろうイメージは重要だ。
そこには前提として、対象との摩擦や衝突の想定が含まれ、それこそが単純なコミュニケーション能力と一線を画すからだ。
コミュニケーションは相手との立場との確執や不和を前提としない。
クレームを行うにしても、それは二つに分かれる。
それは、相手の理解を 促すことが出来る前提で働きかける場合、いわゆる話せばわかるという形の働きかけと
相手の理解を得ることなく要求を通すという観点での、白を黒とするための働きかけだ。
その二つがある。
もう一つ考慮しないといけないポイントは、ぶたれるかぶつか、という闘争に近い性質を、その働きかけが持つ事だ。
穏やかなコミュニケーションと違い、お互いの関係においてある程度の勢いと力を持った自分という突起が相手に向かって伸びる。
当たり所が悪ければ相手が痛いし、折られればこちらが痛い。
これらを踏まえた上で自分を省みると、自分は、なるべく相手を傷つけないように要求をする。
それは自分であれば、あくまでも対話を前提とした働きかけがあれば、誠実に応じるからだ。
つまり、相手を自分に置き換えた上で、自分だったら出来ること、自分がされたくないことを考えて、自身の行動を決めているようだ。
これについては、自分自身が特殊かもしれないので一般化できないが
この場合において、相手が強い敵意を持って行動を選択した場合、自分は要求を達成できないばかりか
優しく差し出した要求という、自分という意識体の柔らかい部分を強く拒絶されることで、傷つけられてしまう。
これは失敗である。
想定以上の被害が出ているので、正確に言うなら大失敗である。
すぐに体制を立て直し、相手との第一回目の接触から得られた情報を元に、戦略を再構築すれば良い話のように思えるが
話はそう簡単ではない。
これについては、空気や、対人学が深く関わってくる。店頭での会話や立ち話の際に、腰を据えて1時間でも話し出そうと構えようものなら
様々な方面から、無言の圧力を感じることになる。
では、相手の鼻っ面に一発見舞うつもりできちんと論理武装をして、態度には強硬さを塗し、やや高めの音圧でもって要求するのが最善なのだろうか。
サービスを受ける側と与える側のように、環境からして有利不利があれば、自分の要求を通してかつ被害を最小にするためには
これが最善なんだろうと思う。
しかし、最適を目指すべく、二元を共に自在に扱うことを、因果の因から果に至るまでなるべく維持したい自分にとっては
やはり好ましい相手は傷つけたくないし、敵からは傷つけられたくない。
無数に抱く理想の中の一つである、強さと優しさを合わせもったクレイマーとなることは未だ達成されていない。
これは一つの無能力だと判じざるを得ない。